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皇居の掃除より、新聞のほうが心配

きょう(2006年4月5日)の毎日新聞朝刊は、皇居の清掃ボランティアが減少しているという記事を、社会面に掲載しています。

おそらく独自ネタということもあるのでしょう、囲み記事で目立つ扱いにしています。読んでみると、これがなんとも、宮内庁べったり。タダの労働力をあてにする役所に全面的に協力し、読者に「勤労奉仕」を呼びかけているかのような内容です。

このような記事に触れるたび、批判精神が持ち味であるはずの新聞の行く末に、大きな不安を覚えます。

〈参加者減少 勤労奉仕ピンチ〉〈「皇居の清掃成り立たぬ」〉という見出しをつけたこの記事は、〈80年ごろまでは年間2万〜3万人で推移していた〉ボランティアが、〈昨年は7408人で、宮内庁が受け入れ窓口を設けた1947年以降最も少なくなった〉と伝えています。

皇居やその周辺の掃除は、もともと宮内庁職員の仕事です。ところが、なにせ敷地が広いので、ボランティアの人たちに大きく頼っている、というのが実情のようです。

こうした状況を受け、毎日は、〈無償奉仕は、広大な皇居の整備に欠かせない側面もあり、宮内庁はホームページなどを通じてPRに努めている〉と、ボランティアの重要性を説くとともに、宮内庁の努力を紹介。さらに、〈人数は減っているが、参加者らの評判はいい〉と書いたうえで、〈「勤労奉仕の助け抜きにして皇居の清掃は成り立たない。職員が代わりをすれば、予算も人員も大規模な拡充を求められる」〉という宮内庁幹部のコメントで記事を結んでいます。

ここに欠けているのは、掃除を「勤労奉仕」に頼っている現状に対する疑問です。役所が仕事をこなすうえで、最初からボランティアの労働力を当て込み、それゆえボランティアが減ると職務を果たせなくなるというのは、おかしくはないか。「勤労奉仕」をあてにするなんて、天皇やその家族が住む家の周辺の掃除なんだから日本国民として参加して当然だ、という宮内庁の勝手な発想が基礎になってはいないか。そういう素朴な「?」は、記事からは感じ取れません。

〈「職員が代わりをすれば、予算も人員も大規模な拡充を求められる」〉と、宮内庁と一緒になって読者に「脅し」をかけている点も問題です。このコメントは、宮内庁職員が掃除をすることになればみなさんの税金をさらに投入することになるんですよ、それでもいいんですか、いやですよね、だったらみなさんすすんで掃除にいそしみましょう、と言っているわけですが、これはちょっとおかしいように思います。本来、皇居の掃除は宮内庁の仕事なのですから、その仕事をするのに宮内庁が必要な職員を確保し、人件費などの税金を使うのは当然のことです。それをよくないことのように言うのは、なんかへんです。

ただ、できるだけ税金を使いたくないという考えはわかりますし、多くの読者も支持するでしょう。でも、だから皇居の勤労奉仕参加者を増やせというのは宮内庁の発想であって、新聞が一緒になって唱える必要はありません。

それより、例えば、広すぎて掃除が大変なのであれば、一部を自治体管理の公園にするなどして皇居の面積を削ればいいのではないか▽掃除するのは天皇一家の住宅周辺なのだから、宮内庁の予算だけ増やして対処するのではなく、天皇家の財布からも清掃費を出したらいいのではないか▽なにも宮内庁職員を増やすのではなく、人材派遣会社のスタッフに掃除に入ってもらえば費用を抑えられ、民間の仕事を作り出すことにもなるのではないか——など、役所とは違った見方で眺めることが、新聞には期待されているのではないでしょうか。

今回の記事〈参加者減少 勤労奉仕ピンチ〉は、新聞が役所と同じ思考回路で物事をみてしまっていることの表れのように思います。本当のピンチは、勤労奉仕ではなく、新聞に訪れているように思います。
# by tmreij | 2006-04-05 20:11 | 本紙

テレビの二番煎じが、新聞の役目か

「靖国神社参拝をやめれば首脳会談に応じる」という中国の胡国家主席の発言に、日本の政治家たちが反発しています。きょう(2006年4月3日)の朝日新聞朝刊は、そうした様子について報じる記事を1面に掲載しています。

読んでみると、76行もある割に、えっこれだけ? と物足りなさを感じます。なぜかというと、テレビで放送された内容を追うだけで、独自の取材や解説がまったくないのです。

〈中国首席発言〉〈安倍・麻生氏が批判〉という4段見出しをつけたこの記事は、安倍官房長官と麻生外相がそれぞれテレビに出演し、胡氏を非難する発言をしたことを伝えています。比較的長めの記事だけに、〈「政治目的を達成するために、首脳会談をしないことを条件として出すのは間違っている」〉(安倍氏)、〈「国家の代表である総理大臣として、(他国に)言われれば言われるほど難しい話になっていく」〉(麻生氏)といった2人の発言を、ていねいにひろっています。

テレビ番組における発言でも、報じる価値があると判断すれば、新聞はどんどん記事にしていいと思います。靖国参拝は、中国や韓国などとの間における懸案ですから、それに関する大臣らの発言に敏感に反応するのは、新聞に求められている役割でもあります。そういう意味では、朝日はしっかりと仕事をしているといえるでしょう。

でも、独自取材で得たコメントやデータをまったく盛り込むことなく、テレビで流れた言葉を書き並べるというのは、どんなもんでしょうか。オリジナルの記述といえば、〈ポスト小泉の有力候補とされる2人がそろって不快感を表明した形だ〉といった位置づけと、〈……と中国側の方針を批判〉〈……と強調し〉〈……と語った〉などの言葉だけです。これでは、テレビ番組の紙上再放送です。番組を見た人は、こんなの知ってるよ、と言いたくなるのではないでしょうか。

番組を見なかった人だっているじゃないか。それに、見た人にとっても、ニュース価値のある発言を選び抜いて、活字として記録しておくことには大切な意味がある、という意見もあるでしょう。それには賛同します。

ただ、新聞ってのはそれだけでいいのか、という話です。

今回の記事は、ちょっと極端に言えば、家でビール飲みながら寝転がってテレビを見ている人でも、メモを取ったりビデオに録画したりさえすれば、書くことができちゃう内容です。といっても、実際にはもちろん、記者が自宅でごろごろしながら書いたわけではないでしょう。安倍氏にしても麻生氏にしても、番記者らがテレビ局に同行し、それぞれの発言を近くで確認したはずです。そのうえで、その記者がデータなり記事なりにまとめたはずです。

そうであれば、番組出演後に、記者は安倍氏や麻生氏らに発言について突っ込んだ質問をし、少しでも両者の認識や考えについて掘り下げ、それを記事に盛り込むべきではないでしょうか。もしかすると、政治家のスケジュールが過密で、質問のひとつさえする間もなかったのかもしれません。それなら仕方ない、という考えもあるかもしれませんが、結果だけみれば、番記者も家で寝転がっているお父さんも、得た情報量は変わりません。となると、番記者の役割っていったいなんなのでしょうか。

読者は、テレビで見られることを新聞に期待しているわけではありません。テレビでは聞けなかった発言の意味や意図などを取材し、それを読者に伝えてこそ、記者が政治家に密着している意味があるはずですし、新聞が役割を果たしていることになるはずです。
# by tmreij | 2006-04-03 23:32 | 本紙

「やった、世界一!」と興奮するのが新聞の役割か

ワールド・ベースボール・クラシック(野球の国・地域別対抗戦)で、日本が優勝しました。きょう(2006年3月22日)の全国紙朝刊は、全紙が1面トップで大々的にこれを報道。さらに、スポーツ面(全紙見開き)、社会面(全紙トップ)で取り上げているうえ、社説もそろって今回の「世界一」を題材にしています。

紙面の使い方もすごいですが、言葉の使い方もすごいことになっています。

〈日いずる王道野球〉〈世界球史に桜咲く〉(毎日、スポーツ面見出し)、〈「最強日本」見た〉〈球史に偉業 感動満開〉(読売、社会面見出し)、〈技術と、献身と、プライドと——。選手の心が一つに結ばれた時、日本の野球は無敵となった〉(読売、スポーツ面)……。

日本国民の喜び方も、ハンパじゃなかったことになっています。

〈「世界一だ!」「やったー!」。東京都内のスポーツバーに集まったファンは、日本の勝利の瞬間、歓喜の声を上げ、何度も万歳を繰り返した〉(毎日、社会面)、〈キューバの最後の打者のバットが空を切った瞬間、(ビックカメラ有楽町店の)1階売り場のテレビに群がった買い物客から割れんばかりの拍手と歓声が上がった〉、〈米国の球場で、大画面テレビの前で、勝利の瞬間を見届けた人たちは喜びを爆発させた〉(朝日、社会面)……。

ええ、ええ、いいと思いますよ、こういう記事や見出しがあっても。国際大会で優勝したわけですから、日本の新聞が、日本の代表チームを讚え、日本のファンの喜びようを誇張気味に伝えるのも、結構だと思います。

でも、そればっかりというのは、まずくないでしょうか。新聞が、やたらと「世界一」を強調し、やったやった、ニッポンバンザイとはしゃいでいるのをみると、あきれるのを通り越して、薄ら寒くなってきます。

この日の新聞で、まだなんとか冷静な視点を保っているのは、次の記述がある朝日だけのように思います。

〈今回の大会が本当に「世界一」を決める場であったかどうか、は別の問題だ。/大会中、王監督は「今回はどこが勝っても、真の世界一とは言えない。優勝より、日本の野球をアピールするつもりでやっている」ともらしていた〉(スポーツ面)

この後この記事は、今回の大会を〈「真の世界一決定戦」へむかう一歩〉と位置づけています。米大リーグの有力選手たちが多数参加していないことを考えれば、当然の見方でしょう。朝日はまた、韓国の通信社が〈「最低勝率の日本が優勝をつかんだことは、次の大会で対戦方式の画期的な手直しが必要だということを逆説的に示している」〉と伝えたことも、紹介しています。

イエー! 世界一だ、と喜ぶ記事を掲載したっていいのですが、上記のような、一歩引いて、ホントに世界一といえるの? といった記事もあわせて載せてこそ、新聞の役割を果たしているといえるはずです。

それなのに、毎日は舞い上がり、読売は日本人のプライドを覚醒させようと懸命で、冷静さや批評精神は両紙には見当たりません。読売は社説で、〈参加を見合わせた大リーガーも多かった……「だから真の世界一決定戦とは言えない」との声も聞かれた〉と書いてはいるのですが、すぐさま、〈そうだろうか〉と疑問を表明。ただ、まともには反論できないからか、〈提示された条件の下で、参加可能な最強メンバーをそろえて臨むことにも、国際大会としての十分な意義はあろう〉と、話のポイントを「世界一決定戦といえるかどうか」から「意義があるかないか」にそらして、お茶を濁しています。

ところで、今回の大会では、イチロー選手を神聖視しているかのような報道も気になりました。

韓国との対戦にからんで、「向こう30年、日本には手を出せないと思うぐらい完全に勝ちたい」「最も屈辱的な日」などと発言し、「侮辱」と受け止めた韓国側がイチロー選手に大ブーイングを浴びせるという出来事があったにもかかわらず、イチロー選手に対して批判的な記事は、ついぞ見ませんでした。

一方で、〈ふだん以上に彼を雄弁に、情熱的にしていた〉(朝日、1面)、〈期間中、クールなイチローらしくない発言が多かった。強気な姿勢は、時に外国から反発を買ったが、”悪役”を買って出ることで、他の選手に重圧を与えないようにしたかったのだろうか〉(読売、スポーツ面)など、イチロー選手の肩をもった記述が目につきました。新聞は、イチロー選手を第二の長嶋茂雄氏にしようとしているのではないか、という気さえしてきます(批判はタブーという点で)。

暗いニュースばかりのなか、久々に明るい話題なんだから、新聞といえども妙に冷静になったり、批判的になったりする必要などない、祝勝ムードを景気よく盛り上げればいいんだ、という考えもあるかもしれません。国と国とが争って日本が勝つことは、日本国民にとってうれしいことなのだから、興奮に水を差したり、日本人としての誇りを損ねたりするような記事なんか書くな、という意見もあるかと思います。

しかし、いくら日本には日本ファンが多いとはいえ、新聞が、すごいぞ日本、日本万歳とだけ唱えるのは、やはり危うい感じがします。そうした記事しか読めないと、読者は自分の国について、周囲を冷静に眺めたうえで評価することができません。そうなると、とかく日本の実力を過大にとらえたり、へんな優越感を覚えたりする人がきっと出てきます。

野球の国別対抗戦ぐらいで冷静な記事も書けないようでは、ホンモノの国別対抗戦(戦争)が始まってしまった場合に、冷静かつ自国にも批判的な報道などできるはずがありません(少なくとも、前の大戦ではできなかった)。新聞は、平時に何事に対しても冷徹な批評精神を発揮し続け、非常時に新聞本来の役割を果たせるよう、絶えず自らを鍛えておくことが大事だと思います。

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今回、数あるコメントのなかでもっとも「あらま……」と思ったのは、読売の社会面に載った、ノンフィクションライター最相葉月氏の次のものです。

〈「日本代表は帽子からスパイクの先まで『日の丸』を感じさせ、全力で世界の中の日本をアピールした。王監督の胴上げを見て涙が出た」〉
# by tmreij | 2006-03-23 03:49 | 本紙