ジェンダー差別の解消には興味なし?

「ジェンダー」という用語が、来年度改定の男女共同参画基本計画に残る見通しとなりました。きょう(2005年12月22日)の朝日新聞朝刊は、政治・総合面の囲み記事で、この話題を取り上げています。

生物としての性別(セックス)に対し、社会的役割や文化的観点からみた性別がジェンダーです。性器による男女の区別はセックスですが、一家の主という言葉から男性を想定したり、秘書という肩書きで女性だと仮定したりするのは、ジェンダー(に基づいた発想)です。

自民党議員の一部は、このジェンダーという言葉があるために、男らしさや女らしさが否定され、行き過ぎた男女平等が学校で教えられているなどと主張。ジェンダーという表記の削除を求めていました。これに対し、猪口邦子・男女共同参画担当大臣は、ジェンダーを認識して批判的にみることと、性差を無視することは別だなどとし、この言葉の存続を訴えてました。

この日の記事は、基本計画の内閣府案が、ジェンダーという用語を残しているとともに、〈「(ジェンダーが)性差別、性別による固定的役割分担、偏見等につながっている場合もある」〉という記述を盛り込んでいると報告。猪口氏の主張が通ったことを伝えています。

と、ここまではいいのですが、直後に以下の記述が続いていて、びっくりします。

〈また(内閣府案は)、「性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」とした〉

ジェンダーは役割分担を押しつけたり偏見をあおったりすることもある、と警告したその舌も乾かぬうちに内閣府案は、男らしさや女らしさの区別をなくすことはけしからん、と言ってのけているのです。

この「男らしさ」「女らしさ」って、いったい何でしょう。絶対的な「男らしさ」「女らしさ」というものは、あるのでしょうか。仮に「男は度胸、女は愛嬌」といったことを意味しているのであれば、それはモロにジェンダーですし、それ以外の内容だとしても、「〜らしさ」なんてものは人や地域、時代によってまちまちなのですから、やっぱりジェンダーといえるはずです。

つまり内閣府案は、ジェンダーは偏見のもとだが、それでも尊重されるべきだ、と言っているのです。これは、ジェンダー(恣意的な男らしさ、女らしさ)による差別を解消しようなどとは、政府は本気では思ってはいないことを、明確に示しているのではないでしょうか。

それなのにこの日の記事は、内閣府案のでたらめぶりをチクリと刺すことさえせず、猪口氏からは〈「様々なご意見を謙虚に受け止め、計画実施の段階で生かしたい」〉といった生ぬるいコメントしか引き出していません。新聞のこうした体たらくが、非合理な性役割の押しつけや男女の不平等がなかなか無くならない理由のひとつになっているように思います。
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# by tmreij | 2005-12-22 23:53 | 本紙

ピアスなし=集中している、でいいのか

元巨人の清原和博選手が、オリックスに入団することになりました。きょう(2005年12月21日)の朝日新聞朝刊は、社会面とスポーツ面でこのニュースを取り上げています。

清原氏といえば、何かと話題になるのがピアス。楽天の野村新監督が強い不快感を示していたことなどが、各紙で繰り返し報じられてきました。

きょうの朝日にも、スポーツ面に〈取ったピアス、意思見えた〉という見出しの署名コラムが載っています。来年39歳という年齢や故障がちな下半身を理由に、来季の活躍を疑問視した後、以下のように結んでいます。

〈巨人ではとかく評判の悪かったピアスは、オリックス入りを表明したとき耳になかった。グラウンド外の喧噪を封じ込め、野球に集中しようという姿勢が、この日は見えた〉

いつもしていた(と思われる)アクセサリーを外したのですから、恐らく何らかの心境の変化があったのでしょう。その変化を見逃さずに記事に取り入れる点は、評価できると思います。

ただ、ピアスをつけていない=野球に集中している、という図式はどうでしょうか。

これは逆を言えば、ピアスをつけている=野球に集中していない、ということになります。中学生がパーマをかけている=勉学に集中していない、というのと同じで、日本ではおなじみでわかりやすい発想ではあります。でも、これってあまりにステレオタイプで、ほとんどギャグの世界ではないでしょうか。外見に気を使う人は、本分に対して堕落している、という説は、どれだけ証明されているのでしょうか。

ピアスをすれば周囲の人に批判を浴び、それが気になって野球に集中できない。だから、ピアスを外せば野球に集中できるはずだ。そういう理屈も成り立つかもしれません。

しかし、この発想で問題とすべきは、ピアスではなく周りで騒ぐ人たちでしょう。ピアスをつけていたって、鼻輪をぶら下げていたって、集中できる人はできるはずです。中学や高校では坊主刈りだった人たちが、プロになったとたんに髪を伸ばしたり染めたりしていますが、外見に気を使うことが集中力の欠如につながるのであれば、これらの選手たちも、野球に十分に集中していないということになるのでしょうか。外見なんかに気を向けて、あーだこーだ批判する野村氏のような人たちこそ、選手の集中の邪魔をしているのではないでしょうか。

新聞などマスコミも、このお邪魔勢力の一翼を担っているのは間違いありません。今回の記事のように、ピアスをつけていない=野球に集中している、と書くことで、へんてこりんな精神論を拡大再生産しているのです。

きょうの朝日の紙面には、清原氏との一問一答も載っていますが、ピアスについて質問した様子は見当たりません。ピアスと、それが象徴する心構えについて書くのであれば、まずは清原氏本人に、ピアスを外した意味をちゃんと聞くべきでしょう。それでもし、野球に集中するためだ、という答えが返ってきたら、そのやりとりをもとに、清原氏の心の動きを描くべきです。

そうした確認をせずに安易に怪しげな精神論を繰り出すのは、新聞にとっても野球にとっても、よくないと思います。
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# by tmreij | 2005-12-21 22:05 | 本紙

ディズニー原画は「発見」なのか

千葉大学が、ディズニーのアニメ原画を保管していると発表しました。きょう(2005年12月20日)の毎日新聞は、朝刊社会面の記事〈ディズニーアニメ 初期のセル画250点 四十数年ぶり、千葉大で発見〉で、この話題を報じています。

記事は、囲み線がつけられ、原画の写真2枚が添えられるなど、目立つ扱いになっています。見出しのとおり、40数年ぶりに貴重な原画が発見されたのであれば、ニュース価値の高い話題だといえるでしょう。ただ、記事を読む限り、「40数年ぶりの発見」という位置づけに違和感を覚えます。

記事では、千葉大で原画が保管されていた経緯について、以下のように説明しています。

〈これらの原画は60年、都内の百貨店などで映画紹介の美術展で転じされ、ディズニー側が国立近代美術館に寄贈した。アニメを研究していた同大工学部の故・源田秀三郎教授が63年、教育用に譲り受けた〉〈原画の存在は関係者しか知らなかったが、同学部助手が退官が近づいた03年末に取り扱いを教授に相談。ディズニー社で本物と確認された〉

この記述からは、原画は所在がわからなくなっていたわけではなく、関係者は千葉大で保管されていることを知っていたことがわかります。また、誰かが探し求めていたわけではなかったこともわかります。

こうした状況で、〈四十数年ぶり、千葉大で発見〉という位置づけは、果たして妥当でしょうか。どちらかというと、「40数年ぶり、千葉大で再確認」「40数年ぶり、千葉大で再評価」といった感じのように思います。

今回の記事は、見出しだけでなく記事本文でも、〈千葉大学は(中略)約250点の原画が四十数年ぶりに発見されたと発表した〉と書いています。もしかしたら、千葉大は「発見された(した)」と言ったのかもしれません。しかしだからといって、前述の経緯を知りながら、そのまま紙面で「発見」と表現するのは、読者をミスリードしていることにならないでしょうか。

今回の話題は、他の全国紙も社会面でカラー写真付きで伝えています。

「発見」という言葉を見出しなどに使っている点では、読売も同じです。〈40年の眠り ”美女”目覚め ディズニー原画 千葉大で250点発見〉という見出しを付け、本文でも〈発見されたのは……〉と書いています。また朝日も、見出しや本文では「発見」という表現は使っていないものの、写真説明で〈発見された「わんわん物語」のストーリースケッチ〉と記述しています。(ちなみに朝日の見出しは、〈ディズニー「お宝」250点 千葉大が原画保管〉で、3紙の中ではもっとも妥当だといえるでしょう)

そして、両紙とも毎日と同じく、原画の移転状況(1960年から国内の百貨店などで展示→国立近代美術館→源田・千葉大教授)がわかっていたことにも触れています。

新聞としては、「発見」というパンチがあって切れのいい言葉を、ついつい使いたくなるのはわかります。しかし、記事にパンチ力をつけるよりも、現実に忠実な言葉を選ぶことを重視すべきだと思います。
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# by tmreij | 2005-12-20 23:53 | 本紙