日本の得点はゼロとして考えるべきだ

サッカーのワールドカップで、日本がオーストラリアに負けました。きょう(2006年6月13日)の全国紙各紙は、朝刊と夕刊でこの敗戦を大きく報じています。

読んでいると、日本が弱いのは新聞の責任も相当大きいかも、という気がしてきました。

試合のスコアは1対3で、先制点を挙げたのは日本でした。しかし、その1点がひどい内容だったのは、テレビの中継やニュースを見た人には明らかだったはずです。中村のゴール前へのパス(シュートではない)を受けようと駆け込んだ柳沢と高原が、相手ゴールキーパーと衝突。キーパーがバランスを崩してボールをパンチ(またはキャッチ)し損ね、ボールはそのままゴールへと転がっていったのでした。

キーパーが思うように動けなければすぐ失点につながることから、キーパーとの激しい接触は故意でなくとも反則をとられるのがふつうです。その観点では、日本のプレーはファウルとされ、得点は認められなくても当然でした。きのうの試合の実質的なスコアは0対3だったといえるでしょう。

ところが、各紙の朝刊はそうした視点の記事はまったく載せていません。〈(得点は)必死の思いでもぎ取った幸運だった〉(毎日スポーツ面)、〈幸運な形で先制点を奪った〉(読売同)などと「幸運」で済ませるだけで、あの得点を疑問視する声はゼロです。反対に、〈(中村は)初めて出場した夢舞台で最高のW杯デビューを飾った〉(読売同)と、得点を積極的に評価している記事もあります。

夕刊になってやっと、〈「俊介ゴールは誤審」〉〈豪GKに主審語る?〉(読売)、〈日本のゴール判定 豪「主審『間違い』」〉(毎日)といった見出しの記事が出てきます。ただこれらも、日本の新聞が独自に冷静な視点で問題のプレーを分析したわけではなく、海外通信社の配信記事に寄りかかって、日本の得点は審判の誤審だったという見方があると伝えているだけ。この日の紙面でもっとも踏み込んだと思える記述は、〈「先制点はファウルと言われても仕方がなかった」〉(読売社会面)という審判の資格をもつ落語家(!)のコメントでした。

新聞がこんなにだらしないのは、審判の判定に敬意を払っているからというより(もし失点したのが日本だったら、各紙は審判批判の記事を載せたでしょうから)、惨敗したおらがチームに厳しいことはあまり書かないでおこうというアンプロフェッショナルな感覚があるからではないかと思います。そしてそのことが、選手および国民の目を現実からそらせ、ひいては日本のサッカーの成長を遅らせているようにも思います。

新聞が自国のチームに肩入れした報道をするのは、ある程度は仕方ないと思いますし、当然だとも言えるでしょう。ただ、かわいさ余って現実を直視せず、厳しい記事を避け、甘ったるい記事を書くようなことはすべきではありません。柳沢や高原のプレーはファウルだったはずで、中村の得点をまともな得点として扱うのは間違いです。

この日の各紙では、日本のキーパー川口の判断ミスを責める記事が目につきました。しかし個人的には、いくつかのファインプレーがあった川口を非難するより、0対3という試合結果にたち、まともなシュートは高原の1本ぐらいしかなかった日本の攻撃力のなさを厳しく指摘すべきだと思います。
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# by tmreij | 2006-06-14 01:51 | 本紙

「暗殺」も「巻き添え」も、気にならない?

無差別テロを主導してきたとされるイラクのテロ組織幹部、アブムサブ・ザルカウィ容疑者を米国が殺害しました。きょう(2006年6月9日)の全国紙各紙朝刊は、1面や国際面などでこのことを伝えています。

米国が2500万ドル(約27億円)の懸賞金をかけてまで必死に追っていた「大物」テロリストだけに、同国や、同国の影響が強いイラク新政府の受け止め方は「やったぜ」といった感じのようです。

それに引きずられてか、各紙の紙面には今回の殺害を好意的にみる雰囲気はあっても、批判的にとらえる記事はまったくといっていいほどありません。

これでいいのかなあ、という気がします。

米国が今回したことは「暗殺」です。米国が「テロとの戦争」状態にあることを考えると、暗殺ではなく戦闘行為の一環だという解釈も成り立つのかもしれませんが、特定の人物を最初から殺すつもりで攻撃したことには変わりありません。そこには、その人物を生け捕りにして容疑事実を確認するとか、法で裁くといった考えはありません(今回殺害されたのも「容疑者」でした)。国家による「暗殺」を非合法だとする考えもあります。

隠れ家を狙った爆撃では、ザルカウィ容疑者のほかに、女性と子ども1人ずつを含む5人が殺されました。これらの巻き添えをどう考えるべきでしょうか。女性や子どもはザルカウィ容疑者の家族だったのかもしれせん。しかしもしそうだったとしても、家族だったら一緒に殺されて仕方ないのでしょうか。

批判や、少なくとも疑問を投げかけるべきところは、いくつかあるはずです。

ところが、例えば朝日は、〈治安改善 楽観できず〉〈テロ減るか不透明〉(総合面)といった見出しの記事で、今回の殺害の効果に対する批判的な声を紹介していますが、殺害そのものを批判的にとらえる意見はどこにも載せていません。その一方で、〈テロとの戦い 「勝利」と称賛 米大統領〉(1面)、〈「一歩前進だ」 小泉首相〉(総合面)という見出しの記事などで、殺害を「手柄」と評価する声は報じています。

各国の指導者がザルカウィ容疑者の殺害をたたえるのは、不思議ではありません。米国は同容疑者のテロへの関与についてそれなりの根拠を示していますから、今回の殺害を好意的に受け止める雰囲気が世間(特に米同盟国)で支配的なことも理解はできます。

ただ、新聞までもが一緒になってその調子でいいかといえば、そんなはずはありません。今回の殺害について、批判でびっしりの紙面をつくる必要はありませんが、批判的な見方をひとつふたつ紹介するぐらいのことはすべきではないでしょうか。
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# by tmreij | 2006-06-09 23:59 | 本紙

村上氏、口が達者なことまで悪いのか

村上ファンドの村上世彰代表がインサイダー取引の疑いで逮捕され、同ファンドをめぐる報道が熱を帯びています。きょう(2006年6月7日)の全国紙各紙朝刊も、1面から社会面まで「村上」のどしゃ降りです。

紙面を眺めていると、新聞によって濃淡の差はあるものの、感情的な記事が各紙で目につきます。いずれも、村上憎し、または村上ザマーミロ、といったタッチです。その根本にあるのは、犯罪行為に対する怒りというより、株の売買だけで何百億もの金もうけをしたなんて許し難い、しかも雄弁でいけ好かない、といったわかりやすい、しかしあまり理性的とはいえない嫌悪感のような気がします。

例えば、読売の社会面連載〈崩壊 マネーゲーム〉は、村上容疑者について以下のように書いています。

〈「『要するにやな——』が口癖で、論理的な話しぶりだった」と小学校の同級生は言う。「大人びていた。先生を偉い人とは思っていなかったんじゃないか」。小学校で同じクラスだった男性(46)はそう振り返った〉

まるで論理的で大人びていたことが悪かったかのような書きっぷりです。さらに、次のような記述も出てきます。

〈(中学・高校でも)攻撃的な話しぶりは相変わらずで、「とにかくよく口が回り、思ったことをズバズバ言う姿が印象に残っている」と同級生は語る〉

弁が立つことまでも否定的な文脈に置いて紹介しています。

新聞が、村上容疑者の触法行為について、けしからんと責めるのは理解できます。今回の事件では、村上容疑者は法を犯したことを自ら会見で認めています。そうした犯行を厳しく批判するのは、公器である新聞の役割だといえるでしょう。

ただ、「モノ言う株主」として、企業側にいろいろと注文をつけてきたことは、それ自体は悪いことではないはずです。たとえその目的が、純粋に株価上昇による金もうけだったとしても、そうした金もうけを否定することは、資本主義を否定するようなものです。口が達者で、相手構わず直言するといった個性は、ことさらプラスに評価する必要はありませんが、マイナスにとらえるのもへんです。まるで、頭脳明晰で弁舌巧みだったことが今回の犯行を生んだと言っているかのような読売の記述は、明らかに「村上憎し」の発想から生まれているように思います。

村上容疑者のような金持ちをやっかむ人は、このブログの筆者を含め、数多くいると思います。拝金主義者や金の亡者(にみえる人)を嫌う人も、たくさんいるでしょう。今回の村上容疑者の逮捕を、爽快感とともに受け止めた人も少なくないように思います。そうした社会では、「村上全否定」の記事は歓迎されこそすれ、文句を言われることはないのかもしれません。

しかし、だからといって「庶民感覚」にどっぷり浸かった、安易で思考停止した紙面をつくっていていいはずがありません。それではテレビのワイドショーと同じです。犯罪は見逃されるべきではありませんが、この国では拝金主義者や金の亡者になる「自由」は尊重されるべきですし、ましてや頭の回転が早くて雄弁であることは認められるべきです。

新聞は、「坊主憎けりゃ……」的な発想で村上容疑者を全否定するのではなく、何が問題で何は問題ではないのかを落ち着いて考え、読者をスカッとさせるよりは「うーん」と考えさせるような記事を書くべきだと思います。
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# by tmreij | 2006-06-07 23:57 | 本紙