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「やった、世界一!」と興奮するのが新聞の役割か

ワールド・ベースボール・クラシック(野球の国・地域別対抗戦)で、日本が優勝しました。きょう(2006年3月22日)の全国紙朝刊は、全紙が1面トップで大々的にこれを報道。さらに、スポーツ面(全紙見開き)、社会面(全紙トップ)で取り上げているうえ、社説もそろって今回の「世界一」を題材にしています。

紙面の使い方もすごいですが、言葉の使い方もすごいことになっています。

〈日いずる王道野球〉〈世界球史に桜咲く〉(毎日、スポーツ面見出し)、〈「最強日本」見た〉〈球史に偉業 感動満開〉(読売、社会面見出し)、〈技術と、献身と、プライドと——。選手の心が一つに結ばれた時、日本の野球は無敵となった〉(読売、スポーツ面)……。

日本国民の喜び方も、ハンパじゃなかったことになっています。

〈「世界一だ!」「やったー!」。東京都内のスポーツバーに集まったファンは、日本の勝利の瞬間、歓喜の声を上げ、何度も万歳を繰り返した〉(毎日、社会面)、〈キューバの最後の打者のバットが空を切った瞬間、(ビックカメラ有楽町店の)1階売り場のテレビに群がった買い物客から割れんばかりの拍手と歓声が上がった〉、〈米国の球場で、大画面テレビの前で、勝利の瞬間を見届けた人たちは喜びを爆発させた〉(朝日、社会面)……。

ええ、ええ、いいと思いますよ、こういう記事や見出しがあっても。国際大会で優勝したわけですから、日本の新聞が、日本の代表チームを讚え、日本のファンの喜びようを誇張気味に伝えるのも、結構だと思います。

でも、そればっかりというのは、まずくないでしょうか。新聞が、やたらと「世界一」を強調し、やったやった、ニッポンバンザイとはしゃいでいるのをみると、あきれるのを通り越して、薄ら寒くなってきます。

この日の新聞で、まだなんとか冷静な視点を保っているのは、次の記述がある朝日だけのように思います。

〈今回の大会が本当に「世界一」を決める場であったかどうか、は別の問題だ。/大会中、王監督は「今回はどこが勝っても、真の世界一とは言えない。優勝より、日本の野球をアピールするつもりでやっている」ともらしていた〉(スポーツ面)

この後この記事は、今回の大会を〈「真の世界一決定戦」へむかう一歩〉と位置づけています。米大リーグの有力選手たちが多数参加していないことを考えれば、当然の見方でしょう。朝日はまた、韓国の通信社が〈「最低勝率の日本が優勝をつかんだことは、次の大会で対戦方式の画期的な手直しが必要だということを逆説的に示している」〉と伝えたことも、紹介しています。

イエー! 世界一だ、と喜ぶ記事を掲載したっていいのですが、上記のような、一歩引いて、ホントに世界一といえるの? といった記事もあわせて載せてこそ、新聞の役割を果たしているといえるはずです。

それなのに、毎日は舞い上がり、読売は日本人のプライドを覚醒させようと懸命で、冷静さや批評精神は両紙には見当たりません。読売は社説で、〈参加を見合わせた大リーガーも多かった……「だから真の世界一決定戦とは言えない」との声も聞かれた〉と書いてはいるのですが、すぐさま、〈そうだろうか〉と疑問を表明。ただ、まともには反論できないからか、〈提示された条件の下で、参加可能な最強メンバーをそろえて臨むことにも、国際大会としての十分な意義はあろう〉と、話のポイントを「世界一決定戦といえるかどうか」から「意義があるかないか」にそらして、お茶を濁しています。

ところで、今回の大会では、イチロー選手を神聖視しているかのような報道も気になりました。

韓国との対戦にからんで、「向こう30年、日本には手を出せないと思うぐらい完全に勝ちたい」「最も屈辱的な日」などと発言し、「侮辱」と受け止めた韓国側がイチロー選手に大ブーイングを浴びせるという出来事があったにもかかわらず、イチロー選手に対して批判的な記事は、ついぞ見ませんでした。

一方で、〈ふだん以上に彼を雄弁に、情熱的にしていた〉(朝日、1面)、〈期間中、クールなイチローらしくない発言が多かった。強気な姿勢は、時に外国から反発を買ったが、”悪役”を買って出ることで、他の選手に重圧を与えないようにしたかったのだろうか〉(読売、スポーツ面)など、イチロー選手の肩をもった記述が目につきました。新聞は、イチロー選手を第二の長嶋茂雄氏にしようとしているのではないか、という気さえしてきます(批判はタブーという点で)。

暗いニュースばかりのなか、久々に明るい話題なんだから、新聞といえども妙に冷静になったり、批判的になったりする必要などない、祝勝ムードを景気よく盛り上げればいいんだ、という考えもあるかもしれません。国と国とが争って日本が勝つことは、日本国民にとってうれしいことなのだから、興奮に水を差したり、日本人としての誇りを損ねたりするような記事なんか書くな、という意見もあるかと思います。

しかし、いくら日本には日本ファンが多いとはいえ、新聞が、すごいぞ日本、日本万歳とだけ唱えるのは、やはり危うい感じがします。そうした記事しか読めないと、読者は自分の国について、周囲を冷静に眺めたうえで評価することができません。そうなると、とかく日本の実力を過大にとらえたり、へんな優越感を覚えたりする人がきっと出てきます。

野球の国別対抗戦ぐらいで冷静な記事も書けないようでは、ホンモノの国別対抗戦(戦争)が始まってしまった場合に、冷静かつ自国にも批判的な報道などできるはずがありません(少なくとも、前の大戦ではできなかった)。新聞は、平時に何事に対しても冷徹な批評精神を発揮し続け、非常時に新聞本来の役割を果たせるよう、絶えず自らを鍛えておくことが大事だと思います。

 ———

今回、数あるコメントのなかでもっとも「あらま……」と思ったのは、読売の社会面に載った、ノンフィクションライター最相葉月氏の次のものです。

〈「日本代表は帽子からスパイクの先まで『日の丸』を感じさせ、全力で世界の中の日本をアピールした。王監督の胴上げを見て涙が出た」〉
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by tmreij | 2006-03-23 03:49 | 本紙

容疑者から直接聞くのと、警察から聞くのは違う

Jリーガーが、女性の家に侵入したとして逮捕されました。きょう(2006年3月21日)の毎日新聞朝刊は、この逮捕について、社会面で報じています。

2段落、計21行という、ベタ見出しの小さな(といっても容疑者の顔写真つきなので結構目につきやすい)この記事は、以下のように始まります。

〈女性宅に侵入したとして神奈川県警麻生署は20日、川崎市××、サッカーJ1・川崎フロンターレの○○容疑者を住居侵入容疑で逮捕した。容疑を否認している。/調べでは、○○容疑者は……〉

これまでにも、似たケースをこのブログで取り上げたことがありますが、この書き方はよくありません。小さなことですが、小さなことだけに、なぜ無くならないのか、なぜ新聞が無くそうとしないのか、不思議です。もしかして新聞に他意でもあるのかと、勘ぐりたくもなります。

よくないのはもちろん、1段落目の最後に出てくる〈容疑を否認している〉というくだりです。毎日はこの部分をすんなりと、事実として書いています。でも、どうやって確認したのでしょうか。

記者が運良く逮捕現場に居合わせたり、逮捕前に今回のJリーガーに接触し「やっていない」という言葉を聞き出していた可能性も、ゼロとはいえません。もしそうだったら、毎日新聞さん、ごめんなさい。でも、その可能性は非常に低いと思いますし、仮に本人や弁護士から否認の意志を確認していたのであれば、そうわかるよう記事で書くべきです。

今回のケースではおそらく、記者は警察から「容疑者は容疑を否認している」との情報を得たはずです。そうであれば、読者にそのことがわかるように書くのが、フェアな報道でしょう。〈容疑を否認している〉に3文字を足し、「容疑を否認しているという」とするだけで、不十分ではありますが、警察からの伝聞情報であることを明確にできます(行数は変わりません)。または、〈調べでは……〉で始まる2段落目にこの情報を入れることもできたでしょう。

そうしたことをせず、(おそらくは)当事者への確認も目撃もしていないことをあたかも事実のように書くのは、明らかに新聞の行き過ぎです。これでは警察の拡声器です。

もしかしたら毎日に、「容疑を認めていると書くのではなく、否認していると書くのだから、いいだろう」という発想があったのかもしれません。犯行を否定していると報じるのだから、本人の不利にはならないはずだ、という考えです。

たしかに、容疑を否認していると書くのは、認めたと書くよりも、悪質性は低いかもしれません。しかし、事実として書くか、それとも警察情報だと明示するかの判断は、容疑者や読者にどれだけ迷惑をかけるかではなく、あくまで当事者らからの事実確認がとれているかどうかで下すべきです。

「……という」といった表現だと自社で確認が取れていないことを公言するようでカッコ悪い、なるべくなら「……した(している)」ときっちり書きたい、といった意識が、新聞にあることも考えられます。しかし、新聞が大事にすべきはメンツなどではなく、事実と読者への誠実さであるはずです。

警察の言うことを無批判、無警戒に事実化して報じることは、新聞の役割ではありません。事実と伝聞を厳しく区別し、それが読者にわかるように記事を書いてほしいと思います。
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by tmreij | 2006-03-21 17:27 | 本紙

イチロー「屈辱」発言を利用していないか

ワールド・ベースボール・クラシック(野球の国・地域別対抗戦)で、日本が韓国に負けました。きょう(2006年3月13日)の朝日新聞朝刊は、ベンチでぼう然とする王監督や選手らの写真を1面に掲載。さらに、スポーツ面1面全部をこの試合の記事に費やすという、熱の込もった報道をしています。

それはいいと思うのですが、〈日本、魔の8回〉〈四球▽まさかの落球▽痛打〉といった見出しにまじって、次の見出しが目に飛び込んでくるのが気になります。

〈イチロー「屈辱の日」〉

個人的には、イチロー選手は、野球選手としてはかなり優れていると思います。道具を大事にし、淡々と仕事をこなす職人のようなところも、個人的には好きです。

ただ、その発言には「?」と感じることがたびたびあり、でもまあ、自己陶酔にとどまっている分にはいいか、ぐらいに思っていました。しかし、この日のように新聞で強調されるのを見ると、ちょっと待ったと言いたくなります。

といっても、イチロー選手にではありません。彼は、国会議員でも公務員でもなく運動選手ですから、思ったことを好きなときに言う自由があります。待てと言いたいのは、彼の言動を利用する新聞に対してです。

今回の見出しは、記事中の以下の記述からとったと思われます。

〈(試合終了後)イチローが何かひと言吐き捨て、その列を去った。「ぼくの野球人生で最も屈辱的な日ですね」。奥歯をかみしめた〉

朝日は、この「屈辱的」という言葉に飛び付いたわけですが、果たしてこの言葉は、今回のゲームを象徴するのにふさわしいものなのでしょうか。

「屈辱」を手元の国語辞典(岩波、第5版)で引くと、「屈伏させられて恥を受けること。服従させられている恥」と出ています。野球でいえば、試合に負け、それを「恥」と感じている状態、といえるでしょう。

気になるのは、この「恥」の部分です。ふつう、勝負に負けて恥ずかしいと思うのは、格下の相手に負けたときではないでしょうか。格上に負けても、残念には感じるでしょうが、恥とまでは思わないでしょう。アメリカに敗れたときには、屈辱や恥といった言葉は、イチロー選手からも他の選手らからも出ていなかったように思います。

そう考えると、イチロー選手は、韓国を見下していたと考えられます。では実際の実力はどうかというと、日本が2戦して2回とも負けたという結果や試合内容からもわかるとおり、韓国の野球レベルは日本と同等かむしろ上ではあっても、格下とは(もはや)言えないと思います(朝日によると、韓国の監督は〈「日本の方がレベルは上」〉と述べましたが、李鐘範主将は〈「次に戦う機会があっても、勝てると思う」〉と言っています)。ただ、自分たちのほうが格が上だとか下だとか思うのも個人の自由ですから、イチロー選手の発想自体を非難しようとは思いません。

問題なのは、記事でさらりと書くのならまだしも、〈屈辱的な敗戦には、しかし、確たる理由がある。勝敗を分けたのは……〉といった具合に、イチロー選手の「屈辱的」という言葉を記事で繰り返し使い、そのうえ見出しでも強調していることです。こうなると、明らかに新聞としてイチロー発言を利用しているようにみえます。

利用するとはどういうことかというと——読者がどんな言葉を欲しているかをわかっていて、でも自分たちでそれを言っちゃうとバランス感覚がないと受け止められ兼ねないから、誰か別の人が言った言葉を強調することで、読者の欲求を満たす(迎合する)——ということです。

今回でいえば、米国にならまだしも、韓国に敗れたことで、なんともいえず苦々しい思いを胸にためている日本人がたくさんいることを、新聞はよくわかっているはずです。そういう人たちにとっては、紙面で「悔しい」とか「残念」「無念」といった、やや平凡(でも必要にして十分)な言葉を見つけるより、「屈辱的」ぐらい強烈な言葉を目にしたほうがある意味気持ちいいだろうことも、なんとなくわかっているはずです(読者にすれば、そうだろ、やっぱそうなんだよ、それぐらい悔しくて情けないことなんだよ、ちきしょー、と自分の気持ちを再確認したり、整理したりできるので、ちょっとすっきりする)。そして結果的には、そうした強烈な言葉に飢えた読者たちに、「屈辱的」というエサをぽんと投げつけているのです。

では、新聞が読者の欲する言葉を提供することは、よくないことなのでしょうか。必ずしも、そうではないと思います。大災害の現場で奇跡的に生存者が見つかった場合などは、生命力や判断力、運の強さなどをドラマチックに伝える言葉を、読者の期待どおりに載せていいでしょう。役人の汚職事件などでは、職業倫理などの点で厳しく非難する言葉を並べていいと思います。

じゃあ、今回はなぜいかんのかというと、いまの日本に漂っている危うい空気に、見事に迎合している感じがあるからです。危うい空気とは、韓国や中国など成長著しい近隣諸国に対するあせりや不安、不満、ねたみ、やっかみ、根拠のない差別意識などの裏返しとして生じる、へんてこりんな愛国心や自尊心、優越感などです。新聞は本来、こういった空気が広がるのを敏感に察知し、それに警告を鳴らす側であるはずです。それなのに、きょうの朝日は、国民に広がっている空気を察知しているところまではいいのですが、それをいさめるのでなく、それにおもねる、またはそれを盛り立てるようなことをしているのです。

見出しや記事中で強調はしていませんが、イチロー選手の「屈辱的」というコメントは、毎日も読売も記事で取り上げています。取り上げること自体、あまり望ましいことではありませんが、イチロー選手の人気を考えると、仕方ない面はあると思います。でも朝日のように、強調したり利用したりするのは危険だし、新聞の役割として逆のことをしているように思います。

そう遠くない過去に、国威発揚に協力し、それを反省したことを、新聞はつねに頭に置いておくべきだと思います。

 ———

日本は結局、準決勝に進出したようです。国の誇りとか、国の威信とかいったものが好きな人の琴線に触れるような記事が、まだまだ見られるかもしれません。
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by tmreij | 2006-03-17 23:33 | 本紙

サラ金広告、問題なのはテレビCMだけじゃない

サラ金(消費者金融)の広告は不快だと、与謝野金融担当相が国会で述べました。きょう(2006年3月16日)の全国紙朝刊は、この発言について、経済面や総合面で報じています。

サラ金の広告とそれを掲載している新聞に関しては、このブログの筆者は、大いに問題ありだと思っています(参考:サラ金の「違法金利」には、新聞も加担している(1)(2))。そんなこともあって、各紙の記事を読み比べてみたところ、書き方のうえでは、朝日は妥当な表現をしているといえそうですが、毎日と読売の書き方はズルい感じがします。内容においては、どれも不満です。

〈「高い金利で貸すサラ金(消費者金融会社)が、テレビコマーシャルを堂々としていることと、かつては超一流だと思っていた銀行がサラ金と一緒に広告を出していることは不愉快」〉(毎日)という与謝野氏の発言は、参院予算委員会で、共産党の大門実紀史議員の質問に答えるかたちで出ました。そこで、しんぶん赤旗のウェブ版(3月16日付)で、大門氏の質問について読んでみると、以下の記述が出ていました。

〈大門氏は、大手銀行がサラ金を傘下に入れて消費者金融に乗り出している実態を新聞広告を掲げながら示しました〉

どうやら、新聞広告を証拠として取り上げながら、サラ金をめぐる問題点を指摘したようです。ということはつまり、問題と思えるようなことが、新聞広告に出ているということでしょう。

全国紙3紙で、このことに比較的ちゃんと触れているのは、朝日だけです。朝日は〈大門氏が示したのは、三井住友銀行と大手消費者金融プロミス、両社が出資するアットローンの3社が全国紙に掲載した共同広告で……〉と書いています。

毎日にも〈三井住友銀行と消費者金融大手プロミスとの提携ローンの広告を掲げて……〉という記述はあります。ただ「新聞広告」とは書かず、〈広告〉としているところに、逃げの姿勢を感じます。読売にはそもそも、大門氏が広告を示しながら質問したという説明はありません。

ズルいと思うのは、見出しについてもです。毎日は〈「サラ金のCM 不愉快」 金融担当相〉とだけ書いていますが、これではまるで、テレビCMだけに問題があるとの印象を、読者に与えようとしているかのようです。

もっともおかしいと思うのは、国会で新聞広告の内容が問題だとされたのに、自社の広告掲載の状況を説明したり、どう考えているかと表明したりしている新聞がないことです。そればかりか、具体的に三井住友銀行などの企業名をあげながら、それらの企業の反応さえ伝えていません。

これらは、自社や自分たちの業界のことになると、とたんに新聞は批判精神がなくなることや、国会担当の記者が直接銀行に取材したり、金融担当の記者と連携したりして記事を作り上げるような風通しのよいシステムが新聞社に整っていないことが、原因の一部になっているように思います。

このサラ金広告の問題については、今回のようないい加減な記事で終わらせず、各新聞とも早期に社としての姿勢を示す必要があるように思います。
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by tmreij | 2006-03-16 23:59 | 本紙

取材源の秘匿は大事、でも記事の検証も大事

読売新聞の記事をめぐって、東京地裁が同紙記者に対し、取材源の身元(国税職員かどうか)を明かすよう命じました。きょう(2006年3月15日)の全国紙朝刊は、このことを各紙1面で取り上げ、社会面にも解説記事を掲載するなど、力を込めた報道をしています。

東京地裁の理屈は、もし情報源が国税職員であれば、その職員は国家公務員法違反をしたことになるし、情報源を明かさない記者も、犯罪行為の隠ぺいに加担したことになる、というものです。記者がおいそれと情報源を明かすようであれば、だれも取材に協力しなくなることが考えられますが、藤下健裁判官は、〈それは公務員の守秘義務違反がなくなることを意味するのだから、法秩序の観点からむしろ歓迎すべきだろう」〉(読売社会面)と言い放ったようです。

このあぜんとする判断に、当事者の読売はもちろん、それ以外の新聞も強い非難を浴びせています。朝日は〈東京地裁決定に沿えば、そのような(官庁側が出す情報以外は市民に届かない)社会になりかねない〉と書き、毎日も〈国民の知る権利を否定しかねない結論を導いた〉と批判。そして読売は〈仮に、公権力が都合の悪い情報も包み隠さず公表するとしたら、決定の論理も成り立つ余地があるかもしれない。だが残念ながら、そんな社会は実現していない。東京地裁の現実離れした判断は、ただちに見直されるべきだ〉と強硬に主張しています。

まったくこれらの意見どおりだと思います。各紙がそれぞれに、今回の決定に「ふざけんな」と大声をあげたのも、当然といえば当然のことではありますが、よかったと思います。

それはそうと、3紙の記事に共通して欠けている情報があるのが気になります。なにかというと、今回の決定の引き金となった読売の記事が、どんな内容で、どれほど正確なものか、ということです。

読売は1997年10月、米国の健康食品会社が「所得隠し」をしたとする記事を掲載。これを受け、この会社は、〈「米政府が情報を日本の国税当局に流したことから、誤った課税処分が報道される結果となり、信用が失墜した」として、米政府を相手取り、アリゾナ連邦地裁に提訴〉(読売1面)したというのが、今回の背景です。

読者としては、読売の記事にはどんなことが書いてあったのか気になるところです。ところがきょうの読売は、〈問題となったのは、同社(健康食品会社)に対する日米両税務当局の所得隠しに関する課税処分について報じた1997年10月10日の読売新聞記事〉と書くだけで、それ以上は触れていません。他紙も同様です。

そこでちょっと調べてみると、該当の記事には以下のような記述が出ています。〈五年間に約七十七億円の法人所得を隠していたことが、日米両国の税務当局による同時税務調査で分かり……〉〈隠し所得は米国の関連会社に送金され、同社の役員が私的に使っていたものと見られ、米国内国歳入庁(IRS)でも追徴課税した模様だ〉〈関係者によると……仕入れ価格を実際の価格より大幅に高く購入したように帳簿に虚偽の記載をして……〉

これらの正誤については、裁判が進行中なので、完全に決着はついていないでしょう。ただ、健康食品会社は〈「誤った課税処分が報道される結果となり」〉と主張しているわけですから、間違った情報が含まれている可能性はあります。

仮に、記事の内容に間違いがあったとしたらどうでしょうか。新聞にしてみれば、当時、情報源から得た情報を記事にしたのであって、意図的に間違ったわけではないのだから、正当な報道だったと主張するでしょう。ただ問題なのは、新聞に特別な意図はなくても、情報源はなんらかの意図をもってわざと誤った情報を記者に伝え、世論をミスリードしようとしたとも考えられることです。

もしそんなことがあったとすると、今回の騒動の全体像や印象はだいぶん違ってこないでしょうか。目的をもって記者にガセネタをつかませたとなれば、その情報源はけしからんということになるでしょうし、秘匿に値するのかという疑問もわくでしょう。最近の永田議員(民主)偽メール問題と同じです。

このように、読売の元記事がどんな情報を含んでいて、それがどれだけ正確(不正確)なのかというのは、読者が今回の問題を考えるうえで、大事なデータのはずです。それなのに、どの新聞にもそうしたデータがありません。これでは、元記事の内容は実はデタラメだったとか、数字がかなり膨らまされていたとか、新聞にとって都合の悪いことを隠そうとしているのではないかと勘ぐりたくもなります。

取材源の秘匿は大事なんだと新聞が主張することは、とても大切なことだと思います。ただ、そうした主張は、書かれた記事に関する厳しい検証をともなってこそ、説得力をもつはずです。たとえ今回のように裁判が進行中のケースでも、できる範囲で記事を検証し、その結果も一緒に読者に伝えることが大事だと思います。
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by tmreij | 2006-03-15 23:50 | 本紙

球審にケチつけて、いいの?

ワールド・ベースボール・クラシック(野球の国・地域別対抗戦)で、日本がアメリカに負けました。きょう(2006年3月13日)の全国紙夕刊は、各紙とも写真つきで、この試合について伝えています。

この試合では、いったん日本に得点が入った直後に、アメリカの監督が、ルール違反があったと抗議。これを受け、球審が日本の得点を取り消し、今度はこれに納得できない日本の王監督が猛然と抗議するという場面がありました(結局、日本の得点は認められず)。

各紙ともこの騒ぎを取り上げていますが、とりわけ毎日が熱くなっています。熱くなり過ぎて、新聞の野球報道の問題点があらわになっているような気がします。

毎日はまず1面で、〈球審に猛抗議する日本・王監督〉の大きな写真を掲載し、見出しでも、〈日本の勝ち越し点 取り消し〉〈判定に泣き●〉〈王監督 猛抗議実らず〉と、悔しさと腹立たしさをたっぷりと表現。さらにスポーツ面では、〈「野球発祥の国で…」〉という大見出しを掲げ、〈好ゲームに水をさす後味の悪い「疑惑の判定」だった〉と、「疑惑」という言葉まで使って、球審の判断を強く批判しています。

この書き方は、つぎの2点で気になります。

ひとつは、野球では審判の判定は絶対だということです。審判だってときには誤った判定をすることを織り込み済みで、野球というゲームは成立しているはずです。いまの科学技術をもってすれば、ストライクやボール、セーフやアウトを正確に判断する審判ロボットをつくることは可能でしょう。正確さを追及するのであれば、そうした機械をどんどん導入すべきです。それをしないのは、ミスジャッジも含めた「人間臭さ」を大切にしているからではないでしょうか。そうであれば、おかしな判定があって当然なのですから、判定はおかしいと批判するのはおかしいはずです。

もう1点は、同じ野球というスポーツでも、プレーしているのが日本の高校生であれば、仮に今回とまったく同じ出来事があっても、今回のような書き方は決してしないだろうということです。毎日は、まもなく始まる春の全国高校野球大会を主催していますが、そこでの試合に関する記事で、〈後味の悪い「疑惑の判定」だった〉などと書いて、審判に文句を言う監督を応援するようなことはまずないでしょう。プロ(大人)と高校生は違う、という考え方もあるかもしれませんが、プロだろうと高校生だろうと、求められるスポーツマンシップは同じはずです。むしろ、プロは子どもたちの見本となるよう、より高いレベルのスポーツマンシップを示すべきだ(今回であれば、抗議などしないで球審の判定を受け入れるべきだ)と考えることもできるでしょう。

こう考えると、新聞は、王監督の約3分間にわたる猛抗議を批判したっていいはずです。というか、批判すべきではないでしょうか。ところが、毎日にも他の全国紙にも、王監督や、〈「選手全員が納得していなかったからグラウンドに出ようとしなかった」〉と話したイチロー選手たちを批判するような記述は、まったくありません。

これは明らかにダブルスタンダード(二重基準)だと思います。高校野球について報じる紙面では、審判の判定を神聖視しながら、国別対抗野球になると、「判定は疑惑だ」などと非難しているのです。ふだん、部活動やスポーツ少年団などで「審判に文句を言うな!」とたたき込まれている青少年たちがきょうの紙面を読んだら、どういうことよ、と思うのではないでしょうか。

てなことを書いてきましたが、個人的には、とんでもない判定をする審判には、あんたとんでもないよと言っていいと思います。ですから、今回の毎日のような紙面は、あってもいいように思います。

ただ、あんたとんでもないよと言うのは、大人の野球の審判に対してだけではなく、高校野球の審判も対象にすべきです。真剣勝負をしているのは何も大人だけでなく、高校生だって同じでしょう(高校生のほうがよっぽど真剣かも)。審判に渡される報酬は大人と高校生の試合で違うでしょうが、審判に求められる正確さは同じはずです。誤審で〈好ゲームに水をさす〉ようなことがあれば、高校野球においてだって、きちんと審判を批判すべきです。相当の理由があるときには審判にモノ申すことができるということを、明確にすべきです。

もしくは、あくまで二重基準を適用し続けるのであれば、新聞はその理由を、高校生たちにもわかるように示すべきです。

そうしたことをせず、都合よくスポーツマンシップを使い分けているようないまの新聞からは、フェアプレー精神とは相容れない、大人のずるさのようなものを感じます。
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by tmreij | 2006-03-13 23:57 | 本紙

なぜ、わざわざ「中国籍」を強調するのか

きょう(2006年3月10日)の読売新聞夕刊は、夫にインシュリンを大量投与したとされる妻が殺人未遂容疑で逮捕された、というニュースを社会面で報じています。

短行のシンプルな逮捕記事ですが、なんか偏見をにじませてない? といった感じがする内容になっています。

記事は、以下のような文章で始まります。

〈千葉県光町の中国籍の女が、インシュリンを大量に投与して夫(54)を殺害しようとしたとして、千葉県警捜査1課と匝瑳署は10日、同所、○○容疑者(33)を殺人未遂の疑いで逮捕した〉

気になるのは、〈中国籍の女が〉という部分です。この国籍に関する記述は、なんのために付けているのでしょうか。

容疑者が外国人かどうかが重要な情報となるのは、外国人であることが犯罪と関係している場合でしょう。例えば、不法滞在者による事件が考えられます。外国政府や企業のためのスパイ活動や、外国人犯罪グループの不法行為も該当するでしょう。日本社会に適応できなかったゆえの犯罪や、異なる文化や価値観から生じた違法行為、外国人への差別や偏見が動機になった犯行なども含まれると思います。こうした種類の事件においては、容疑者の国籍は大事な情報のひとつだと思います。

では、今回はどうでしょう。

記事は、被害者とされる男性を、〈夫〉と書いています。ということは、逮捕された容疑者は、この男性と正式に結婚しているのでしょう。日本国籍は取得していないのかもしれませんが、日本政府も認める夫婦として、千葉で暮らしていたはずです。

事件そのものも、被害者には不謹慎な表現かもしれませんが、日本人でも起こしそうな、どちらかとういと単純な内容です。

記事中に、中国籍との事件との関係がうかがえるような説明があるかと思って読み返しましたが、何もありません。上記1段落目に続く2段落目は、2004年ごろに容疑者がインシュリンを大量に投与した疑いがあるとし、最後の3段落目では、男性が意識不明の重体だと伝えているだけです。

中国籍なのは事実なんだし、事実を書いて何が悪いんだ、という意見もあるかもしれません。容疑者のバックグラウンドは、それだけで大事な情報だ、という考えもあるかと思います。

しかし例えば、今回の容疑者が大阪の出身だったらどうでしょう。「千葉県光町の大阪市出身の女が、インシュリンを大量に投与して夫を殺害しようとしたとして……」と書いても、事実に間違いはありませんし、関西の出身というのも、その人の特徴のひとつでしょう。でもやっぱり、ヘンじゃないでしょうか。

なぜヘンな感じがするかというと、大阪出身であることが、事件と直接関連している印象を受けるからです。こんな記事があれば、大阪出身者はおそらく強い違和感を感じるでしょうし、名誉棄損で訴えたろか、ぐらいは思うんじゃないでしょうか。

このことはなにも大阪だけでなく、北海道だって沖縄だって、中国だって韓国だって、どこの国・地域についてだって同じはずです。

また、仮に自分が外国で暮らしていて逮捕されたとき、事件と国籍との関連についてたいした説明もないまま、新聞に日本人であることをことさら強調されたら、イヤな感じはしないでしょうか。「オレは日本人だから悪いことをしたんじゃない、悪いヤツだから悪いことをしたんだ」と開き直りたくならないでしょうか(なりませんかね)。

今回の記事は、見出しでも〈殺人未遂容疑 中国籍の女を逮捕〉と、「中国籍」であることを強調しています。本文も、冒頭でいきなり、〈中国籍の女が……〉と書くなど、中国に恨みでもあるのか、といった印象さえもたせる仕立てになっています(本当にあるのかもしれませんが)。

新聞は、国籍と事件との関連を示せないのであれば、あらぬ偏見を助長しないためにも、国籍を強調するようなことはすべきではないと思います。
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by tmreij | 2006-03-10 23:48 | 本紙

こういう裁判記事を、もっと読みたい

電車で痴漢をしたとして、1審で有罪判決を受けた東京都内の男性会社員が、東京高裁で逆転無罪になりました。きょう(2006年3月9日)の朝日新聞朝刊は、〈この2年半返せ〉〈痴漢事件で逆転無罪〉という大見出しをつけて、このニュースについて社会面で大きく報じています。

この記事、いい記事だと思います。何がいいかというと、ちゃんと読者の内側に伝わってくる内容になっているのです。

その大きな原因は、裁判記事の基本形で終わっていない点でしょう。「どこどこの裁判所は、だれだれ被告(なになにの訴え)に対し、それそれの判決を言い渡した」といった記述に、判決の中身やそれまでの経緯、当事者の主張を織りまぜるなどするのが、通常の裁判記事です。しかし今回の記事は、そうした「基本」にとどまらず、以下のような記述で、事件にほんろうされる会社員の姿を伝えているのです。

〈事件で、結婚6年目で生まれた待望の長男(当時2)の育児日記を毎日つける日々は一変した。24年間つとめた印刷会社は休職に〉

〈父親の植木の仕事を手伝い始めたら、塀から落ち足を複雑骨折。その後は生活保護に頼っている〉

〈パトカーで警視庁戸塚署に連行された。何を言っても刑事は「正直に言え」の一点張りだった〉

〈無実を訴え続けた男性の勾留は105日に及んだ。妻の「やっていないのは分かっている。がんばって」という言葉が支えになった〉

裁判というのは、多くの読者にとってはなじみが薄く、遠くて冷たいものではないかと思います(裁判員制度が始まると違ってくるでしょうが、いまのところは)。黒い法衣を着た法律の専門家が、争いごとについて高いところから裁定を下す、といったイメージではないでしょうか。

しかし、当たり前ですが、被告や原告やその家族、それに検察官や弁護士、裁判官だってみんな人間なわけで、裁判は実際はとても人間くさいものであるはずです。

それなのに、新聞は多くの場合、裁判のそうした人間くさい部分を伝える努力をあまりしてこなかったのではないでしょうか。そしてそのことが、読者にとって裁判を、さらに遠い存在にしてきたように思います。

今回の記事は、無実の罪(まだ確定したわけではありませんが)に問われることが人生にとってどれだけ破壊的かといったことや、そういう状況では家族の信頼と支えがいかに大事かといったことを、じんわりと伝えています。被疑者に自白を強いる、警察の相変わらずな体質も浮かび上がらせていますし、男性読者には、自分がいつ今回の会社員のような立場になるともわからない、といった不安も感じさせます。ふつうは遠くて冷たい裁判記事を、読者が同情や感情移入をできるところまで溶きほぐしているのです。

そのためには、かなりの取材が必要でしょうが、今回の記事からは、そうした努力のあとがうかがえます。新聞には、こうした裁判記事をどんどん書いてほしいと思います。
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by tmreij | 2006-03-10 00:42 | 本紙

「同和はコワイ」を前提にしていないか

きょう(2006年3月8日)の読売新聞朝刊は、社会面のトップに連載記事〈許すな組織暴力〉の第1部3本目を載せています。

暴力をちらつかせたり実際にふるったりしながら無理難題を押しつけ、不当な利益を得ている人たちがいることを伝え、そうした人々を糾弾するという狙いは、とてもよいものだと思います。これぞ新聞の仕事といえるでしょう。充実した連載への期待も込めて、がんばって、とエールを贈りたいと思います。

ただ、きょうの記事については、「組織暴力許すまじ」の気持ちが先走って、やや言論の暴力になってしまっている嫌いがあるように思います。

〈公共事業 食い物〉〈エセ同和、エセ右翼、暴力団 執拗に要求〉という見出しの今回の記事は、同和団体を名乗る男から、九州の建設会社に、下請けの仕事を回すよう求める電話がかかってきたというエピソードで始まります。そして、見積書が唐突に届いたり、電話が何度もかかってきたりしたことに触れ、〈「エセ同和」による典型的な不当要求だった〉と段落をまとめています。

続く段落では、同じ団体名をかたる男から、宮崎県内の複数の自治体に、公共工事について脅しともとれる電話があったことを紹介。〈「正体を決して明かさずに、『同和団体』を装って公共事業に食い込むのが彼らの常とう手段だ」〉という県職員の言葉を添えています。

また、その次の段落は、警視庁管内特殊暴力防止対策連合会(都内2330社が加盟)に一昨年、〈「エセ右翼」「エセ同和」の相談は412件〉寄せられたとし、業種別の相談件数では建設業が圧倒的に多かったことを報告しています。

以上の内容から伝わってくるのは、同和団体じゃないのに同和団体のふりをして(エセ同和)、公共事業など建設工事にからんで、不正に金もうけしようとしている人たちがいるということです。

ここでふと疑問に思うのは、不正な金もうけをしようとしている人たちは、なぜ同和団体を名乗るのかということです。ところが、この点について、記事にはなんの説明もありません。

なぜないのでしょうか。

それはおそらく、「同和団体は暴力的」「同和はコワイ」という認識が読者に広く共有されていると、読売が考えているからではないでしょうか。

同和団体は、主に被差別部落の人たちでつくる団体です。長年、不当な差別に苦しんできたこともあり、生活改善の要求や偏見の糾弾などの際に、乱暴とも取れる言動をした同和団体もあったかとは思います。

しかし、同和団体がみなそういう団体かというと、そんなことはないでしょう。つい先日、全国大会の記事が載っていた「部落解放同盟」も、同和団体のひとつです。全国紙各紙は、この団体が暴力組織でないと判断しているからこそ、集会について取り上げたはずです。部落解放同盟ほど知名度がなくても、淡々と偏見や差別の解消に取り組んでいる団体だってあるでしょう。というか、そうではないという合理的な根拠がない限り、まともな団体がほとんどだと想定すべきではないでしょうか。「同和団体は暴力的」という認識を一般的なものだとするのは、ちょっと乱暴だと思います。

そうした偏見ともいえる誤った認識を前提に、今回のように暴力批判の記事を展開していくのは、誤認識の補強につながるように思います。読者によっては、同和を名乗って脅迫する人がいると淡々と書かれているのをみて、本当に脅威だからなのだろう、と理解する人だっているでしょう。エセ同和とはどういうものかを知らない人がこの記事を読むと、何だかよくわからないけど同和団体というのはコワイ団体らしい、と感じるのではないでしょうか。

もし読売が、「いや、同和団体の多くは、本当に暴力的なんだ」との考えをもっているのであれば、「エセ同和団体」を取り上げるより「同和団体」の不当行為を非難する記事を載せるのが先でしょう。その場合、同和団体の暴力性をきちんとデータで説明すべきことは、言うまでもありません。

ともあれ、今回のような「同和はコワイ」という認識に頼った書き方は、すべきではないと思います。そういう書き方は、同和団体に関係する人にとっては、暴力にも近いのではないでしょうか。

では、どうしたらいいのかというと、エセ同和についての説明をわずかでも入れればよいのです。例えば、「『同和団体は暴力的』という偏見を利用し、同和団体を名乗ることで相手に圧力をかけようとする者もいる」といった一文があれば、同和問題について知らない読者でも、ああ同和団体はホントは恐ろしくないのね、とわかります。逆に、そうしたことわり書きがないと、どうも同和団体というのは危ない団体のようだとの印象をもったり、そうした偏見を強固にしたりする読者もいるのではないでしょうか。

面倒を避ける傾向が新聞にも強まっているなか、暴力と闘おうという読売の姿勢は、称賛に値すると思います。ただ、勢い余って自らが言葉の暴力になってしまっていないか、厳しく自問することも大事だと思います。
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by tmreij | 2006-03-08 23:54 | 本紙

ニコチンパッチ処方、「法律違反」の指摘は無視?

きょう(2006年3月6日)の毎日新聞朝刊は、ニコチンパッチという禁煙補助薬の使用を、歯医者が患者に指示することが増えいている、という話題を第2社会面で取り上げています。

〈歯科医処方は是か非か〉という5段の大見出しが示しているとおり、記事は、歯医者がニコチンパッチを処方することの善し悪しについて問題提起。ただ、完全に客観的な立場かというとそうではなく、〈結果的に歯科医に処方を促している自治体もある〉ことを紹介し、〈「歯科医による禁煙指導は効果的で、厚労省は例外として処方を認めるなど柔軟な対応を検討してほしい」〉という大学教授のコメントで記事を結ぶなど、印象としては、どちらかというとすでに処方している歯科医を擁護しています。

このように、あることがらの是非を問う体裁をとりながら、どちらかの立場をそれとなく支持する記事は珍しくありませんし、そういう記事があってもいいと思います。ただ今回の記事では、片方に甘すぎる嫌いがあり、読者としては、新聞の批評精神は都合のいいときにしか発揮されないのか、という感想をもちます。

記事によると、腕などに張ることで体内にニコチンを浸透させるニコチンパッチについて、厚労省は〈「全身に影響するような医療品」〉に分類。これをもとに、歯医者による処方については、医師法違反だとの見解を示しています。

こうした見方を知ると、読者としては当然ながら、すでに処方している歯科医や、〈結果的に歯科医に処方を促している自治体〉がこの点についてどう考えているか、気になるところではないでしょうか。

ところが今回の記事は、記事に登場する〈西日本のある歯科医〉にも、〈ホームページ(HP)などで処方を宣伝している〉歯科医にも、〈結果的に歯科医に処方を促している自治体〉である和歌山県にも、まったくこの点については語らせていません。もちろん取材時には、国が歯医者の処方を法律違反だとみていることについてどう思うのかを聞いているはずですが、その問いに対する答えは、記事では1行も触れていないのです。

きょうの記事は、法律違反をしている歯医者たちを告発することが狙いではないため、不法行為に関する言及が甘くなるのは理解できます。ただ、片方(非側)で「法律違反だ」という声があることを伝えながら、もう片方(是側)はそのことについてまったく無視しているかのように書くのは、読者に消化不良を起こさせます。そればかりか、この新聞は、片方を応援するため、都合の悪い内容は意図的に排除しているのではないか、という疑いさえももたせます。

日本は一応、法治国家です。時代や状況にそぐわない法について、どんどん意見を言って変えたり廃止したりしていくのはよいことだと思いますが、それとは別に、現存する法律に違反しているとの指摘がある場合、指を差された人の言い分を聞き、批判すべきところがあれば批判し、応援すべきところは応援するというのも、新聞の大事な役割のひとつだと思います。なんにしろ新聞にとって大事なのは、当事者の言い分をちゃんと書くことだと思います。

今回の記事では、さらりとひと言でもいいから、歯科医師側の言い分を紹介すべきだったと思います。
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by tmreij | 2006-03-06 23:59 | 本紙