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NYタイムズは読売について、もっと違うことも書いている

きょう(2006年2月14日)の読売新聞朝刊は、同紙の渡辺恒雄主筆(読売新聞グループ本社会長)が米紙ニューヨーク・タイムズ(11日付)で紹介されたと、第3社会面で報じています。

〈NYタイムズ紙 本社主筆を紹介〉というベタ見出しの小さな記事ですが、これがなんとも、報道機関らしくない内容になっています。ひとことで言うと、「いいとこどり」なのです。

記事中、NYタイムズの報道内容について触れているのは、以下の2カ所です。

〈渡辺主筆が、太平洋戦争に突き進んだ日本の指導者らの責任を日本が自ら検証する必要性を唱えていることや、小泉首相の靖国神社参拝を批判していることを紹介。その背景には、戦争を知らない世代の中で高まるナショナリズムやアジアの近隣諸国との関係悪化に対する懸念があるとの見方を示した〉

〈読売新聞が昨年夏から「戦争責任」を検証する連載記事の掲載を始めたことや、靖国神社に代わる無宗教の国立追悼施設の建立を社説で訴えたことも紹介した〉

これを読むと、NYタイムズは読売のことを、反国家主義的でハト派な新聞だと誤解して報じたのではないかと、心配になってきます。

そこで、NYタイムズの記事をみてみると、なんのことはありません。ちゃんと、読売のことを理解しているであろうことを示す、次のような記述が出ています。

〈渡辺氏は自らの新聞でこつこつと、ナショナリズムが高まる土壌を作り上げてきた〉〈小泉首相の靖国神社参拝を非難する社説を昨年6月に掲載したのは、読売にとっては180度方向転換をしたようなものだった〉〈読売は、いまの日本でわき起こっている勇ましいナショナリズムを盛り上げる大きな力となった〉(このブログの筆者訳。NYタイムズの記事に関しては以下も同じ)

どうも、読売はこうした記述については、完全に無視しているようなのです。

もし、今回読売が掲載したのが純粋な「広告」だったら、NYタイムズに何が書いてあろうと、自社のイメージアップに役立つであろう部分だけをつまみ出して読者に伝えても、まあいいでしょう。新聞社としてはかなりカッコ悪い行為だとは思いますが、権威ある米紙に取り上げられたことが嬉しく、それを何とか利用しようとがんばってるんだな、かわいいな、とほほ笑ましい気持ちで見守ることもできます。

しかしきょうのように、広告ではなく「記事」という形態でNYタイムズの記事を紹介しているとなると、話は別です。一人前の報道機関であれば、自社にとって好ましい記述だけでなく、好ましくない内容もちゃんと報じて当然のはずです。もし自分たちには納得いかない評価をされていたとしても、そうした記述があることも読者に知らせ、そのうえで反論なり解説なりすべきです。

ところで、今回のNYタイムズは、以下のような記述や渡辺氏の言葉(約2時間にわたってインタビューをしたそうです)も、記事に盛り込んでいます。

・小泉首相について——〈「小泉という人物は、歴史も哲学も知らず、勉強もせず、まったく教養がない。だから『靖国に参拝して何が悪いのか』『靖国を批判するのは中国と朝鮮だけだ』といったばかなことを言う。彼の無知が原因なのだ」〉

・神風特攻隊について——〈「彼らが勇気と喜びに満ちて『天皇陛下万歳!』と声を張り上げながら飛び立ったなんて大うそだ」と渡辺氏は怒りを込めて話した。「彼らは屠殺場のヒツジだった。みんなうなだれ、よろよろしていた。立ち上がれずに、整備兵たちに飛行機に押し込まれた人もいたのだ」〉

・自らについて——〈渡辺氏は自らの(政界などへの)影響力が弱くなっているのではないかと気にしている〉〈「今年で80歳になる」と渡辺氏は言った。「残された時間はあまりない」〉

小泉首相と特攻隊についての発言は非常に参考になると思いますが、自らについては意識過剰なのが気になります。自意識の極めつけは、記事の最後に使われているこの言葉です。

〈「私は、日本のすべてを変えられると思っている」〉

こんなことを言う人をトップに掲げている新聞にあまり期待をしてはいけないのかもしれませんが、広告ではなく記事を書くときには、もう少し客観性とバランスに気を配り、読者に物事(それが自社への批判であっても)を正確に伝える努力をしてほしいと思います。
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by tmreij | 2006-02-14 23:21 | 本紙

わいろ実行部隊の責任は?

大阪府の元教育監(教育長に次ぐナンバー2)が、在任中にわいろを受け取った疑いで逮捕されました。きょう(2006年2月12日)の京都新聞は、社会面でこのことを大きく伝えています。

大阪の事件なのに、大阪に本社を置く全国紙よりも、京都新聞のほうが詳しく書いています。そのことはとてもよいと思うのですが、内容が詳しいだけに読者が感じる疑問点については、ちょっと鈍感なような気がします。

全国紙の報道によると、元教育監は在任中だった2年前、知人(大阪市内の学校法人の前理事長)の親族の女性を府立高校の非常勤講師に採用するよう学校側にプッシュ。知人から、お礼として高給スーツの仕立券付き生地(35万円相当)を受け取った疑いがかけられています。

朝日も毎日も読売も、上記のように人間関係をぼやかして書いているなか、京都新聞は、〈(知人から)教員志望の孫娘(24)を講師に採用するよう頼まれ、大学の後輩だった府立高校長(58)に「採用してやってほしい」と依頼〉と記述。「親族」は知人の孫娘であり、校長は教育監と特別な関係があることを明らかにしています。

さらに、〈(知人は学校法人名義の)カードで仕立券などを購入し、妻と娘に(教育監の)自宅まで届けさせていた〉という、全国紙にはない情報を盛り込んでいます。つまり、親子3人でわいろ工作をしていたと報じているわけです。(孫娘は結局、非常勤講師として採用されたようです)

今回の事件においては、いずれも大事な情報だと思いますし、あえて伏せるようなことでもないように思います。

ただ、これらのことを知れば読者は当然、「わいろ作戦の実行部隊だった妻や娘の責任は問われないの?」と思うでしょう。作戦を描いたのは前理事長だったのかもしれませんが、だれかが実際に金品を渡して初めて犯罪が成立するのですから、役どころとしては実行部隊だって重要です。前理事長の妻や娘(講師として採用された孫娘にとっては祖母と母)が、訳もわからずにスーツの仕立券を元教育監に届けたなどということはないはずです。

それなのに紙面では、実行部隊の責任についてはまったく言及されていません。これでは読者は、消化不良を起こします。また、前理事長の孫娘の採用は結局、元教育監の働きかけが効いたからなのかどうかも、今回の記事からはわかりません(この点は全国紙も同じ)。これだって、読者としては気になるところです。

読者に疑問をもたせたまま終わるのは、記事としてよくないと思います。疑問に思うようなことはないかと常に意識して、取材・執筆をしてほしいと思います。

 ———

今回の記事は、京都新聞のオリジナルではなく、共同や時事などの通信社が配信した記事なのかもしれません。地方紙などは、通信社の記事でも「共同」「時事」といったクレジットなしで掲載することが多いようです。

内容に対する責任の所在をはっきりする意味でも、クレジットは入れるべきだと思います。これについては、またいつか改めて書きたいと思います。
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by tmreij | 2006-02-13 00:33 | 津々浦々

沖縄返還「密約」の事実を奪い返せ

沖縄返還の際に、米国が出すべき補償費用を日本が代わりに負担するという「密約」が日米間であったと、当時の外務省担当者が明かしました。きょう(2006年2月10日)の毎日新聞朝刊は、1面と総合面でこのニュースを大きく報道。元担当者の暴露を受けてもなおも密約を認めようとしない日本政府を、厳しい口調で批判しています。

この政府批判を全面的に支持するとともに、他の新聞には、これが報道の根源にかかわる問題であることをよく認識し、しっかりと政府を追及することを求めたいと思います。

この密約については当時、毎日新聞記者がスクープしました。ところが国は、機密情報を漏らしたとして、記者を国家公務員法違反(記者の情報源が外務省職員だったため)の疑いで逮捕。記者は、事実を突き止めることは犯罪ではないと主張し、最高裁まで争いましたが、結局有罪が確定しました。肝心の密約があったかどうかは、裁判では明らかにされませんでした。

こうしたいきさつもあってか、この日の毎日は、激しい言葉を政府に浴びせています。すでに、〈00年5月と02年6月に、肩代わりを「日米間の密約」と明記した米政府の文書が米国立公文書館で見つかった〉うえに、今回の告白も出てきたにもかかわらず、〈安倍晋三官房長官は9日の記者会見で「全くそうした密約はなかったと報告を受けている」と述べ、政府として改めて密約を否定した〉ことに対し、〈明白な証拠がで出ているにもかかわらず、密約の存在を認めない日本政府の姿勢は不誠実極まりない〉と断じています。

まったくそのとおりだと思います。

今回の元外務省担当者の暴露は、毎日のスクープかと思いきや、朝日もきょうの朝刊総合面で報じています。ただ、毎日のように、政府の反応を非難する言葉はありません。一方、読売は、きょうの紙面には記事を掲載できていません。(2006年2月10日20時7分  読売新聞)と打刻してあるウェブ版の記事をみると、〈麻生外相は10日の記者会見で、「(2000年当時の)河野外相に吉野元局長が『密約はない』と答えたことで、この話は終わっている。外務省の態度に変化はない」と述べた〉と書いていますが、やはり批判や論評はみられません。(この記事はあす11日の朝刊に掲載されると思いますが、内容は変わるかもしれません)

えらく淡泊じゃないでしょうか。

もう30年以上も前のことですが、新聞記者が事実に迫り、それを報じたことが、罪にされたのです。そのうえ、政府はこれまでずっと密約なんてなかったという見解を貫いてきたため、超一級のスクープを放ったはずの記者は、とてつもない不名誉を被ってきたのです。

このことに怒らずして、新聞記者でしょうか。今回の告白は、記者の不名誉をぬぐい去る絶好の機会ですし、なにより、一つしかない「事実」をめぐる争いに決着をつけるチャンスです。政府は、今度は不名誉が自分たちのほうに降りかかってくることを恐れて、密約を認めず、言い逃れをしてなんとか切り抜けようとするでしょう。新聞は、それを許してはならないと思います。
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by tmreij | 2006-02-10 23:30 | 本紙

なぜイラン人の裁判に、初適用なのか

東京地裁における、とある重罪事件の裁判で、あっと驚くほど素早い判決が出ました。きょう(2006年2月9日)の全国紙朝刊は、いずれも社会面でこの出来事を取り上げています。

記事を読むと、初公判から13日目に判決を出すという、類のないほど短期間な審理だったことはよくわかります。しかし、おそらく多くの読者が頭に浮かべるであろう疑問に、どの新聞も答えていないのが気になります。

今回の裁判は、通常のものとは異なり、〈迅速で分かりやすい裁判のため、初公判前に証拠や争点を絞り込む〉(毎日)という作業がありました。「公判前整理手続き」と呼ばれるもので、東京地裁でこの手続きを適用したのは、これが初めてだったようです。

裁判をスピーディーに終了できるというメリットがある反面、特に被告にとってはマイナスとなる点があるようです。今回の裁判について被告弁護人は、〈「時間が足りない」〉(読売)、〈「我々の主張をもう少し時間をかけて検討してほしかった」〉(朝日)、〈連日開廷では時間的に検討が十分出来ず、非億のためになるかは疑問だ〉(毎日)などと話しています。

そうしたデメリットも考慮してのことでしょう、この「公判前整理手続き」は昨年11月に導入されたのですが、それ以降の裁判すべてに適用されているわけではありません。

では、今回のケースは他のと何か違いがあるのかというと、一つ大きな特徴があります。被告がイラン人で、この被告に刃物で切りつけられたとされる被害者もイラン人という「外国人裁判」なのです。

東京地裁に数多くある刑事裁判のなかで、なぜこの裁判が選ばれたのか。読者としては、非常に気になるところではないでしょうか。もしや、ガイジンは日本人に比べ裁判の進行についてとやかく言う確率は低いだろうと判断し、新しい手続きの初適用にはちょうどいいと考えたのではないかとも想像できます。もしかしたら、そんな意図はまったくなく、機械的に選出しただけなのかもしれません。ただ、3紙が3紙とも、理由についてはまったく何も書いていないとなると、何かウラがあるんじゃないかと勘ぐりたくもなります。

なぜ東京地裁での初適用がこの特徴ある事件だったのかということは、記者だって当然疑問に思ったでしょうし、その点について尋ねてもいるはずです。記者は担当者から説明を聞いて納得したのかもしれませんが、読者はちっともわかりません。自分が疑問に思ったことは読者も疑問に思うだろうと考え、仕入れた情報をちゃんと読者にも伝えるべきです。

これはあまり考えたくはありませんが、イラン人の事件が選ばれたことに対して、単に関心をまったく寄せなかった結果、今回のような記事になったのかもしれません。もしそうだとしたら、その記者は、読者に対して劣悪なサービスしか提供できていないことを自覚すべきだと思います。
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by tmreij | 2006-02-09 23:51 | 本紙

こんな「妊娠報道」をずっと続ける気か

紀子さん(日本人だけど名字なし。旧姓川嶋)が妊娠したようです。きょう(2006年2月8日)の全国紙各紙の朝刊は、1面トップでこのことをでかでかと報告。社会面や総合面などにも関連記事を詰め込んでいます。

朝日と毎日は、社説でも妊娠を取り上げています。朝日は〈出産のご無事を祈りながら、静かに見守りたいと思う〉と抱負を表明。毎日も〈何よりも、紀子さまがすこやかに過ごされるよう、静かに見守りたい〉と説いています。また、読売は社説ではありませんが、社会面記事で紀子さんの高校時代の恩師を登場させ、〈「周囲がとやかく言うのではなく、静かに見守ってほしい」と訴えた〉と書いています。

各社そろって、「静かに見守る」という言葉が好きなのはわかりました。ただ、これだけ大々的に妊娠について報じ、前日には号外まで出しておきながら、「静かに見守る」もなにもあったもんじゃないような気がします。

べつに、「静かに見守る」のがよくないと言っているわけではありません。でも、本当にそうする勇気も落ち着きもないのに、口先でだけそんなこと言うのは、何となくうそつきっぽい感じがするのです。

新聞が、母体やその他の家族への気づかいを表明すること自体は、間違ってないと思います。しかし、一方で人間的な配慮を口にしながら、他方では「ついに男か、はたまた女か」とすぐやり出すのは、矛盾もいいところです。きょうの全国紙は3紙が3紙とも、1面記事のリード部分で、〈男児が誕生すれば〉(朝日)、〈男子が生まれれば〉(毎日)、〈男子誕生の場合は〉(読売)と、生まれてくる子の性別に強烈な興味を示しているのです。

読売名物の相談コーナー〈人生案内〉(くらし面)には、「夫の親や周囲からとにかく男の子を期待され、プレッシャーに参りそうです」といった類の相談がしょっちゅう出ていますが、そういったものを読むまでもなく、〈男児が誕生すれば〉なんて新聞に書かれれば、紀子さんの身心に大きな影響を与えることは明らかではないでしょうか。(それを覚悟で子作りに臨んだとしても)

今回のケースでいえば、雅子さん(やっぱり名字なし。旧姓小和田)に与える精神的ショックだって大きいでしょう。いよいよ待ちに待った男子か、もしそうなら男系天皇を守ることができるし、皇室典範の改正も必要なさそう、などと紙上で盛り上げれば盛り上げるほど、男の子を生んでいない雅子さんにみじめな思いをさせるのではないでしょうか。結局、私は男子製造機なの? といった怒りや悩みをしたため、読売の〈人生案内〉に送りたくなったとしても、無理ありません。(送らないでしょうが)

こんな風に、新聞がやさしい言葉を吐きながら、同時に個人の身心を圧迫しズタズタにするといった矛盾は、生身の人間を国家の象徴にするなどという制度がある限り、いつまでも続くと思います。だいたい、新聞が皇族の妊娠を「静かに見守る」なんてのはムリです。新聞の役割のひとつとして、読者の関心に応えることがあり、天皇の「お世継ぎ」は、いつの時代もある程度の人々の関心事だからです。芸能人やアナウンサーの妊娠・出産だって記事にしている時代に、公人中の公人の妊娠について何も報じないなんてできないでしょう。第2社会面の短信程度で報じるといったことも、読者離れが怖くてできないと思います。

皇族妊娠報道の矛盾を解消するには、問題の根源に向き合うしかないと思います。ある一家に苦しい思いを強いながら、国や国民の統合の象徴になってもらっているって、どうよ? という問いに、正面から取り組むしかないはずです。問題の本質は報道側にあるのではなく、皇室という制度にあると思います。

いま皇室典範を改正しないと、またいつか「女子女系天皇もあり?」という問題が起きると懸念する声があります。きっとそのとおりでしょう。同様に新聞も、「静かに見守りたい」などと言っているだけでは、またいつか必ず、皇族になっている人々の人格を踏みにじり、身心を傷つけるようなことをしてしまうと思います。

新聞は、皇室典範の改正といった小さな事柄に気を取られるのではなく、国の象徴とは何かという根本的な問題を見据えるべきです。
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by tmreij | 2006-02-09 03:01 | 本紙

こんなの「体罰」じゃなくて「暴行」でしょ

きょう(2006年2月7日)の毎日新聞朝刊の第2社会面には、〈けがのひざにも 体罰、顧問処分〉〈群馬の県立高〉というベタ記事が載っています。(おそらく東京本社発行のものだけだと思います)

全23行の地味な扱いではありますが、こうした事象をちゃんと問題視し、読者が多い社会面に記事を掲載したことは、評価できると思います。

しかし、記事をよく読むと、問題視の仕方が甘すぎるような気がしてきます。

記事によると、処分されたのは、前橋市内の県立高校の30代男性教員。この教員が、運動部の男子部員の〈顔を殴るなど計9回にわたって体罰をし〉、そのうちの1回では、〈けがをしていた生徒の右ひざをけって傷を悪化させ、生徒は入院して手術を受けた〉とのことです。群馬県教委の発表で発覚したようです。

この教員、ちょっとひどくないでしょうか。顔を殴ることだけでも十分問題だと思いますが、けがしているところをさらに痛めつけて入院させるといった、弱点を狙う野生動物みたいなことまでしていて、とても教員のふるまいとは思えません。

これを「体罰」と呼ぶのは、ごまかしのような気がします。れっきとした「暴行」であり、「傷害事件」だと思います。

そもそも「罰」というのは、悪い行いに対してこらしめることのはずです。それなのに、今回に記事によると、教員が「体罰」をしたのは、〈部員が指示どおりのプレーをしないことに腹を立て〉たのが理由です。そんなことでいちいち「体罰」をされていたら、生徒としては身が持ちませんし、だいたいにおいて、指示と違ったプレーをすることが悪い行為かというと、そんなことはありません。この点からも、「体罰」という言葉はふさわしくないと思います。

今回のような出来事は、県教委としては不名誉なことですし、大きな騒ぎにしたくないでしょう。そこで、「体罰」といったあいまいな言葉を持ち出し、大したことではないように見せかけようとしたり、あわよくば教育的な意味を印象づけようとしたりするわけです。しかし、新聞がそうした発表を無批判におうむ返しする必要はありません。仮に、被害者の生徒たちが被害届を出してなくて、刑事事件にはなっていないとしても、「暴行」という言葉を使ったって問題はないはずです。

子どもの教育は、痛い思いをさせるぐらいの厳しさがあってちょうどいいんだ。そんな認識をもっている人が、教員や保護者にも少なからずいるように感じることがあります。先生に叩かれたり蹴られたりしてけがしたぐらいでぎゃーぎゃー言うな、かえって感謝しろ、といった感覚です。まったくもって大人の身勝手な言い分としか思えませんが、きょうのような暴力教員に甘い記事を読むと、もしかしたら新聞も、同じような感覚を共有しているのではないかとの疑念が浮かんできます。

「体罰」がよい効果をもつときも、もしかしたらあるのかもしれません。しかしそんなのは、ごくごく限られた場合だと思います。少なくとも、〈部員が指示どおりのプレーをしない〉ときの指導方法として、「体罰」が適当などということはないはずです。

大人ならだれもが知っているように、学校ではふうつ、教員が圧倒的強者です。児童や生徒にとっては、たとえ暴行であっても、教員のすることにはだまって耐えるしかないことがほとんどです。教育の意味を込めた「体罰」とされるものは、往々にして実は単にカッとした末の行為だと思うのですが、それでも多くの子どもは、ただじっと我慢するしかありません。

新聞が、だれの立場で学校での「体罰」について取材し、記事を書くべきかは明らかです。記事によると、この教員は、〈減給1カ月の懲戒処分〉しか受けていません。そのことも含め、「教育者」たちの行為について、もっと批判的な視点が必要ではないかと思います。
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by tmreij | 2006-02-07 23:57 | 本紙

「親日家」チャップリンに甘えていないか

チャップリンは親日家だった。そのことを証明する写真が見つかったと、きょう(2006年2月6日)の読売新聞夕刊が社会面で大きく報じています。

実際にチャップリンが日本を好きだったのかどうかについては、ここでは問題にしません。ただ、きょうの読売の記事からは、チャップリンが親日家だったことを示す写真が見つかったと言うには相当無理があるように思いますので、そのことを指摘したいと思います。

記事は、〈喜劇王チャーリー・チャプリン(1889〜1977)の親日ぶりを示す大正、昭和初期の写真約150点と、著名人がチャプリンに送った手紙約500通が広島市内で見つかった〉という文章で始まります。

ふーん、どんな写真が見つかったんだろう、と思うところです。その疑問に答えるように、記事は続いて、〈昭和を代表する大女優・初代水谷八重子がハリウッドで対面した際の記念写真や、初来日時に撮影した当時の斎藤実首相とのツーショットなど貴重な資料ばかり〉と説明しています。

え? それがどうして親日家の証になるんだろう。なんか落ち着かない気分になってきました。「遠路はるばる日本からやってきた大女優と記念撮影する=親日」というのも、「来日時に首相と記念撮影する=親日」というのも、どっちもちょっと強引すぎるような気がします。

きっと、本文中にすんなりわかる説明があるはずだ。そう気を取り直して、先を読み進めます。すると、写真の内容に関する記述が2カ所出てきました。ひとつは、〈水谷の写真は、ハリウッドで映画「サーカス」(1928年)を撮影中のチャプリンを訪ねた際のもの〉というもの。相変わらず、日本の大女優との記念撮影について書いています。もうひとつは、〈東京でおでんを食べる写真もある〉という15文字です。

東京でおでんを食べたガイジンはみんな親日家だといえるのであれば、なるほどねと納得できるところです。でも、それもちょっと強引、というか、どんな認識の持ち主なのかと疑いたくなります。

記事には、こんな説明しか出てきませんが、最後に映画研究家の次のようなコメントが載っています。〈「チャプリンが日本人と一緒に写った写真はどれも飾らない明るさがあり、親日ぶりを改めて実証している」〉

新聞記事におけるウルトラCというのは、こんな展開のものをいうように思います。親日ぶりを示す写真が見つかったと、具体的なデータで言うのではなく、およそ関係なさそうな記述で文章をふくらませ、最後で個人の主観的なコメントひとつで結論づけてしまっているのです。

写真は150点も見つかったということですから、親日家だと判断できるようなものもあるのかもしれません。であれば、それについて書くべきです。今回の記事には2枚の白黒写真を付けていますが、1枚は大女優との記念撮影、もう1枚は「おでん写真」です(おでんを食べるチャップリンの表情は、神妙にも険しくも見えますが、おいしそうに感じているようには見えません)。もし親日ぶりを示す写真があるのなら、そちらを載せるべきでしょう。

この読売の記事は、「チャップリンのような人が親日家であってくれたらうれしい」という、多くの読者がもつであろう思いに大きく甘えているように感じます。だれに迷惑をかけるわけでなし、読者にとっては喜ばしい内容なんだから、データとしてちょっとぐらいズレてても気にする人なんかいないだろう、といった新聞側の感覚が透けてみえます。

新聞は、推論やこじつけの発表の場ではありません。今回のように〈親日家チャプリン〉と大見出しをつけるのであれば、それをきちんとデータで示すべきだと思います。

 ———

繰り返しになりますが、チャップリンは親日家ではなかったと言っているわけではありません。「親日家だったことを示す写真が見つかった」という記事について、その中身の薄さを取り上げたものです。
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by tmreij | 2006-02-06 23:52 | 本紙

言論に「出自による特別ルール」なんてあるのか

きょう(2006年2月4日)の朝日新聞は、〈皇室典範〉〈ここは冷静な議論を〉と題した社説を載せています。

朝日は2日前にも、〈寛仁さま〉〈発言はもう控えては〉という見出しの社説を掲載。皇位継承問題で意見を表明している寛仁氏(現天皇のいとこ)に、口をつむぐよう求めました。(参考:「皇族に「だまれ」はあんまりだ」)

きょうの社説は、〈この(2日の)社説に対して「言論機関が皇族の言論を封じるのか」という反論も寄せられた〉ことを紹介(ちなみに、このブログの筆者は寄せていません)。そのうえで、〈しかし、皇族だからこその言論のルールがある。それを指摘するのはむしろ言論機関の責務ではないか〉と主張しています。

そうでしょうか。

気になるのは、〈皇族だからこその言論のルールがある〉というくだりです。言論の自由は、すべての人間に等しく認められるべきもののはずです。それなのに、特定の家に生まれたという理由だけで、その人の口に無理やり特別なマスクをかぶせてよいものでしょうか。皇族は人間ではない、だから人間として生まれ持っている自由などない、と朝日は言いたいのでしょうか。

朝日が言う〈皇族だからこその言論のルール〉とは、皇族は政治的なことについては何も言うなということでしょう。しかしこれが、朝日の普遍的な主張かというと、そうでもないように思います。

例えば、故裕仁氏(昭和天皇)が1984年9月、韓国の全斗煥大統領(当時)を迎えた宮中晩餐会で「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾」と述べたとき、朝日は「ルール違反だ」「だまれ」と主張したでしょうか。明仁氏(現天皇)が90年5月、韓国の盧泰愚大統領(当時)歓迎の宮中晩餐会で「わが国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じ得ません」と発言したときはどうだったでしょうか。ともに、戦争責任と関係する高度に政治的な発言といえると思いますが、これらについては、朝日はどちらかというと好意的な受け止め方をしていたのではないでしょうか。

自らの歴史観や価値観に合う発言については問題視せず、自分たちの主張と対立する内容のときには、人間がもつ最も根源的な自由を否定してまでも発言を封じようとするのは、人間の素直な感情としてはわかります。しかし、言論の自由をどこよりも尊ぶはずの新聞がそんなことをし出すのは、やはりおかしいと思います。

上記参考文「皇族に『だまれ』はあんまりだ」で述べたとおり、問題なのは皇族による発言ではありません。皇族の発言をありがたがったり利用したりする人々の存在や、そういう人々を生み出し続けているメディアの姿勢だと思います。

〈言論機関の責務〉は、他者の言論に対してルールをつくることなどではなく、だれもが思ったことを自由に発言できる環境をつくることではないでしょうか。そのためには、どこに生まれたかなんかで発言に軽重の差をつけるような社会を変えることが、まず必要だと思います。
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by tmreij | 2006-02-05 00:21 | 本紙

「内輪の論理」から早く抜け出て

朝日新聞は、「紙面審議会」という会合を年に数回もっています。社外の数人に紙面についてあれこれ意見を言ってもらい、編集幹部が説明するといった場のようです。きょう(2006年2月3日)の朝日新聞朝刊は、オピニオン面1ページを使って、1月に開いた審議会の様子を伝えています。

「委員」という肩書きがつけられたご意見番は計4人。日本国際交流センター理事、政策研究大学院大学教授、美術作家に加え、伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎氏がいます。この丹羽氏が鋭い意見を述べているので、紹介します。

〈丹羽委員 10月20日に普天間基地移転に関して「アメリカは沿岸案を拒否」との記事が載った直後、日米交渉で米国は沿岸案を受け入れた。書いた時点では事実でも結果的に違った時に、どう対処するのか、新聞として考えておく必要がある〉

〈西村陽一・政治部長 記事を掲載した時点では米国の交渉方針に間違いはなかった。実際、米側はいったんは拒否している。しかし、日米交渉はその後、非常に複雑な展開をたどり、米国の折衷案、日本の修正沿岸案の提案など、二転、三転、四転している。その経緯と背景については、その後の雑報と2度にわたるかなり詳細な検証記事で報じている〉

〈丹羽委員 見出しだけしか読まない読者も多く、関係者や専門家でなければ、長大な検証記事はなかなか読まない。「内輪の論理」を脱し、読者の目線に立った対応が必要だ〉

〈武内健二・編集局長 (前略)結果的に間違ったとき、どうフォローすべきかについては、これからも工夫していきたい〉

こういうやりとりがあったことを隠さず伝えている点で、朝日は良心的だといえると思います。ただこれが、読者のガス抜きだけを目的としているとしたら、逆にかなり悪質です。

過程がどうであろうと、結果として誤報となったときに、読者に率直に「間違えました」とわかりやすく表明することが新聞には求められています。技術的には、そんなに難しいことではないはずです。問題は、メンツとかプライドとかいったものがからんだ心理的な抵抗感でしょう。しかし、そんなものは早く飛び越えてしまうべきです。間違っても、「ミスを認めたら読者の信用を損なう」といった読者をバカにした理屈を持ち出すべきではありません。

朝日には、〈これからも工夫していきたい〉という官僚の答弁のような発言で終わりにせず、丹羽氏が要求するよう、早期に〈「内輪の論理」を脱し〉てほしいと思います。
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by tmreij | 2006-02-04 00:51 | 本紙

皇族に「だまれ」はあんまりだ

女性・女系の天皇を認めるかどうかをめぐって、国会議員173人が、慎重な審議を求めて署名をしたことが発表されました。きょう(2006年2月2日)の全国紙各紙朝刊は、1面や総合面などでこのことを伝えています。

朝日は同じ紙面で、〈寛仁さま〉〈発言はもう控えては〉と題した社説を掲載。皇族の寛仁氏(現天皇・明仁氏のいとこ)が最近、皇位継承問題で活発に意見を表明していることをとらえ、皇族としてふさわしくないと批判しています。

この社説に、反対します。

社説が言わんとしていることは、簡単に言うと、「だまれ」ということです。朝日は、〈今回の一連の寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う〉との見解を示し、〈(天皇は)国民の意見が分かれている問題では、一方にくみする発言は控えたほうがいい。これは皇族も同じである〉と主張。そして、〈寛仁さまひとりが発言を続ければ、それが皇室の総意と誤解されかねない。そろそろ発言を控えてはいかがだろうか〉と結んでいます。

朝日が危惧するところはわかります。でもやっぱり、言論機関である新聞が「だまれ」はないんじゃないでしょうか。

朝日は、〈たとえ寛仁さまにその意図がなくても発言が政治的に利用される恐れがある。それだけ皇族の影響力は大きいのだ〉と説きます。これはそのとおりでしょう。皇族の発言を引用や(故意に)誤用し、自分の意見に箔や重みをつけようとする政治家や著名人らは、珍しくありません。

しかしそれは、皇族の発言を利用するほうが悪いはずです。新聞は、そうした「虎の威を借るキツネ」のような輩を見つけたら、厳しく非難すればよいのです。

ただ、そもそもの問題は、〈皇族の影響力は大きい〉と認めることしかしない新聞の姿勢にあるように思います。この日の社説が〈憲法上、天皇は国政にかかわれない〉と書いているとおり、皇族と政治は完全に切り離されていなければならないはずです。であれば、皇族の言動が政治的な影響力をもち得ること自体、おかしくはないでしょうか。新聞は本当は、ふだんからこの矛盾を突っ込んでおくべきなのに、ほとんど何もしていないように思います。

それどころか新聞は、明らさまに皇族を持ち上げ、特別扱いするなど、本来すべきことと反対のことをしています。例えば、皇族に生まれた人には、それがたとえどんな人物であろうと、「さま」という敬称を付けます(逆に、皇族以外の家に生まれた人には、どんな人物であろうと「さま」は付けません)。皇族についてだけ突然、敬語で記事を書く新聞もあります。写真にしたって、普通の公人についてはバシャバシャ撮り放題、使い放題なのに、公人中の公人である皇族になると、態度をコロッと変えて、宮内庁提供や代表撮影の写真をうやうやしく掲載することが珍しくありません。

憲法により、天皇は国民統合の象徴と位置づけられています。しかし、象徴だからといって、新聞が特別な敬称を付けたり、紙面で格別の配慮をしなければならないという決まりはありません。新聞社が、勝手に特別扱いしているのです。そしてそのことによって、読者に「あの人たちはスゴイ人たちなんだ」といった誤った印象を与え、その結果として、皇族に「影響力」を与えているのです。

では新聞はどうしたらいいのかというと、特に難しいことをする必要はありません。ただ、平生から、皇族の影響力を削ぐことに努めるべきなのです。皇族だという理由だけで、特別扱いしたり、ありがたがったりしないのはもちろん、皇族が何かについて発言しても無視したり、取り上げるとしても反対意見や他の様々な見解も一緒に載せるなどし、日本に住む一個人の意見として相対化して「うすめて」報じたりすればいいのです。

今回の朝日のように、とにかく「だまれ」と言うのは、言論機関としてやはりおかしいと思います。皇族は、実質的に移動や職業選択の自由がないなど、基本的人権も認められていない気の毒な人たちですが、国民の関心事については口をつぐめというのは、あんまりです。寛仁氏にだって、一人のおじさんとしての発言を認めるべきです。認めたうえで、発言に政治的な影響力をもたせないよう、新聞としてできる限りのことをすべきなのです。

そんなこと言ったって、現時点では実際に影響力が強いんだから、だまるよう言うしかないじゃないか、という反論もあるでしょう。しかし、皇族の発言が政治的に使われてしまうことより、言論機関が発言を封じ込めてしまうことのほうが、将来に残す禍根としては大きいと思います。いま現在、皇族の発言がある程度政治的に利用されてしまうのは仕方ありません。新聞が怠慢だったから、そんなことが起きてしまうのです。新聞がすべきは、皇族の言論を封殺することではなく、皇族の言論に妙な影響力を与えないよう努力することです。

朝日新聞は最近、「それでも 私たちは信じている、言葉のチカラを。」というコピーの広告をたくさん打っています。言葉のチカラは、朝日新聞だけでなく、万人が平等にもつべきもののはずです。朝日は、相手をだまらせてチカラを抜き取ろうとするのではなく、自らの言葉のチカラを信じ、言論を闘わせるべきではないでしょうか。
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by tmreij | 2006-02-02 23:57 | 本紙