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「東南アジア系」っていうのは、悪いこと?

埼玉県の女性が、見た目で外国人と間違われ、パスポートを持っていないとして埼玉県警に誤って逮捕されたうえ、日本人だとわかるまで半日以上も拘束されるという事件がありました。きょう(2006年2月28日)の全国紙朝刊は、このニュースを社会面で報じています。

外見も含め、「日本人」が変わりつつある現実についていけていない警察の失態だといえるでしょう。各紙とも、そのことが伝わってくる内容になっています。朝日と毎日は、警察署長におわびの言葉を述べさせてもいます。

さて、ちょっと揚げ足取りというか、いちゃもんみたいなのですが(いつもそうですが……)、今回の朝日の記事で、以下の書き方が気になります。

〈女性は外見から東南アジア系と疑われて徹夜で事情を聴かれた後に逮捕された〉

これを読むと、なんだか、東南アジア系であることが悪いことであるかのような感じがしてこないでしょうか。

「疑う」を手元の国語辞典(岩波、第5版)でひいてみると、「(多く、悪いことを予想して)……ではないだろうかと思う」と出ています。例文には、「彼を犯人かと——」というのが挙げられています。

ふだんの会話でも、「疑う」はネガティブなことに関連して使うのではないでしょうか。「ソウルの街を歩いていたら、指名手配中の韓国人かと疑われて職務質問をされた」というのは自然だと思いますが、「ソウルの街を歩いていたら、近所の韓国人かと疑われて道を尋ねられた」というのはおかしいと思います。

今回の記事では、〈東南アジア系と疑われて〉ではなく、「東南アジア系と間違われて」と書くべきでしょう。

朝日は今回、〈日本人女性を誤認逮捕〉〈埼玉県警 外見で判断、徹夜で聴取〉という、どこよりも大きな4段見出しを掲げています。警察の差別的な逮捕に対し、強い非難を浴びせるねらいがあるかと思うのですが、肝心の記事本文(しかも前文)で差別的ともとれる表現をしていては、非難の効果が弱まるばかりでなく、逆に非難されるようなことになってしまいます。

新聞は、ふだんもそうですが、不当な差別を指弾するときには特に、記事に差別的な表現がないか(記者が差別的な感覚をもっていないか)を厳しくチェックすべきだと思います。

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ところで、なぜ身元の確認に手間取ったのかということについては、全国紙各紙は、女性があまり話をしなかったとされている点を挙げています。朝日と読売は、所持品に書かれていた会社を警察署員が訪ねたものの、女性の身元を確認することができなかった、という警察の説明も紹介しています。

各紙の記事内容に大きな違いはないので、これまでにわかっているのはこんなところなんだろうと思っていたのですが、東京新聞を読んでぎょっとしました。全国紙にはない、以下の記述があったからです。

〈女性の所有物から母親らしい名前が分かったため、女性の写真を母親(五八)に見せたところ、「知らない」と答えたため外国人と判断。二十六日午前五時すぎに逮捕した〉

なんと、警察は逮捕前に母親に会い、写真を見せて娘かどうか尋ね、母親からは「知らない」という返事を得ていたというのです。

これは、東京新聞の独自情報なのでしょうか。それとも、全国紙もこの話について知っていたけど、書かなかったのでしょうか。情報の正誤も含めて、気になります。
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by tmreij | 2006-02-28 22:29 | 本紙

勝手に皆川選手を「ダメなやつ」にしていない?

トリノ五輪のアルペンスキー男子回転で、北海道出身の皆川堅太郎選手が4位、湯浅直樹選手が7位に入賞しました。きょう(2006年2月27日)の北海道新聞朝刊は、1面トップでこのニュースを取り上げています。

競技結果だけではなく、2選手のレース後の感想や、それぞれけがに悩まされた経緯、スキーへの熱い思いなどを、本人たちの言葉を交えながら伝えていて、地元ならではの充実した紙面になっています。(社会面には地元で応援する人たちの記事を大きく掲載)

ただ、1面記事を読んでいくと、文章の締めの部分がすっきりしていないため、読後感が落ち着きません。力を込めた紙面なだけに、残念な感じがします。

皆川選手の苦労や努力を伝える記事は、次の文章で締めくくられています。

〈銅メダルに0秒03差。皆川は申し訳なさそうに言う。「子どもたちがスキーを目指せるような看板に僕はなりたい。メダルを取っていれば、もっと注目されたんだろうけど」。そんなことはない。日本が半世紀も忘れていた興奮を思い出させてくれたのだから〉

一見、巧みな文章で、読者としてはちょっとした余韻に浸りたいところではありますが、どうも素直にそうすることができません。というのも、〈そんなことはない〉という言葉に引っかかってしまうからです。

〈そんなことはない〉というぐらいですから、これを書いた記者は何かを否定しているのでしょう。では、何を否定しているのかと思って文章をさかのぼると、構成上、考えられるのは、〈「メダルを取っていれば、もっと注目された」〉、または〈「看板に僕はなりたい」〉という皆川選手の発言です。

〈「メダルを取っていれば、もっと注目された」〉というのを否定すれば、「メダルを取っていたって、いまより注目されることはなかった」ということになります。絶対に可能性がないとは言いませんが、記者がそんなふうに思ったとは考えにくいです。また、〈「看板に僕はなりたい」〉という本人の意向を〈そんなことはない〉と否定するというのも、なんだかよくわかりません。

記者が〈そんなことはない〉で打ち消そうとしていたのはおそらく、「自分はヘマをしたダメなヤツだ」といった選手の思いでしょう。〈日本が半世紀も忘れていた興奮を思い出させてくれたのだから〉という最後の一行からも、そのことが推測できます。「あなたはダメな選手なんかじゃない」と、そっと背中に手を当てて慰めようとしたのではないでしょうか。

しかし、果たして皆川選手が「自分はダメだ」と思っているかどうかというのは、今回の記事からは明確ではありません。〈「メダルを取っていれば、もっと注目されたんだろうけど」〉というコメントは、至極当たり前な内容です。残念そうな気持ちはうかがえますが、自己否定に沈んだり落ち込んだりしている様子は、あまり感じ取れません。本人はたいして落ち込んでいないのに、記者が勝手に落ち込んでいると思い込んじゃったんじゃないか、とも思えてきます。

もしかしたら、記者は記事にある以外の皆川選手の言葉を聞いたり、そばで表情を観察していたりして、自己否定に陥っている印象を受けたのかもしれません。ただ、そうであればそのことを書かないと、読者にはその雰囲気が伝わりません。

文章に対する考え方は、いろいろあると思います。書かれていないことも文章の流れで想像し、飛躍やねじれがあっても、行間を埋めるがごとく、読者が情報を補いながら読むのが当然だ、という考えもあるかもしれません。詩や小説、論文、台本など、ジャンルによっても、様々な違いがあると思います。

ただ、新聞の文章は、書いてあることがすべてで、紙面で完結するのが原則だと思います。読者の想像力や推理力、親切心などに頼った、独りよがりで甘えた文章は、紙面からは排除すべきだと思います。前後のつじつまが合わず、理屈がすっきりと読者の頭に入らない文章も、あってはいけないと思います。

新聞記事は、複数人の目によってチェックされたうえで紙面に載るのが普通です。それなのに今回のような文章が出たのは、記者もデスクも校閲も整理も、地元選手の活躍や思いに気を取られ、冷静さに欠けていたからではないかと想像できます。

新聞は、たとえ自らが感動し、読者の感情をゆさぶるような文章を書こうと思っても、どこかで冷めた目をもち続け、飛躍や破たんのない文章を読者に提供することが大事だと思います。

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簡単にもうひとつ。

この日の道新社会面には、〈元ドリカム西川容疑者〉〈また覚せい剤所持で逮捕〉のベタ記事が載っています。その記事は、以下のように書かれています。

〈警視庁牛込署は二十六日までに、覚せい剤を所持したとして……西川隆宏容疑者(41)を逮捕した。/西川容疑者は覚せい剤について「先週、渋谷で買った」と供述している。/調べでは、西川容疑者は……〉

この書き方は、記者が直接、容疑者の供述を聞いたときだけに許されるはずです。本当に容疑者から聞いたのならいいのですが、そうでないとしたら、こんな前近代的な書き方をいまだにしているとは、驚きです。(道新が書いたか、共同通信などの配信なのかは不明)
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by tmreij | 2006-02-27 23:56 | 津々浦々

「格差」直結は強引では & 永田議員にダメ出しを

きょう(2006年2月26日)の北海道新聞は、1面トップで〈経済格差 学力に反映〉という見出しのアンケート集計記事を掲載。その下では〈「永田氏謝罪で収拾」〉という見出しで、民主党の送金指示メール問題の続報を載せています。

読んでいて、どちらにも思うところがあり、どちらかにしようかと思ったのですが、日曜ですし、どちらも書きます。(日曜はあまり関係ないかもしれません)

まず、いまはやりの「経済格差」記事(共同通信の配信と思われる)から。

記事によると、日教組の教育研究全国集会に参加した全国の小中学校教員126人が、共同のアンケートに回答。〈「この十年間に保護者の経済的な格差が広がったと思うか」〉と聞いたところ、「強く感じる」と答えたのは29%、「やや感じる」は48%だったようです。また、〈平均程度の学力の子が減って下位層が増え、上位層との二極化傾向が進んでいるとされることについて、家計の格差が影響しているか〉という質問では、「強く思う」が12%、「やや思う」が36%という結果が出たようです。

これらをもって、道新は〈経済格差 学力に反映〉という大きな見出しをつけている(見出しやレイアウトはふつう各紙が独自にする)のですが、はたして妥当な見方でしょうか。

経済格差が広がっていると感じている教員は8割近くに上りますが、学力二極化の原因が経済格差にあると考えている教員は5割を切ります。小中学校の先生が2人いれば、1人は経済格差が学力に影響しているとみていますが、もう1人はそうは思っていなかったり、わからなかったりしているのです。

そんなアンケート結果で、経済の二極化と学力の二極化が直接結びついているような印象を読者に与えるのは、やはりちょっと乱暴なように思います。

経済格差の問題に取り組むことはとても意味があると思いますし、タイムリーな話題を大きく扱うのも自然なことだと思います。しかし、データとその解釈(見出しを含む)の間に飛躍や無理が感じられる記事は、いくらその狙いや着想がよいものだったとしても、評価することはできません。それどころか、読者の考えを無理やり一定の方向に導こうとしている意図やうさん臭さを感じさせ、記事がアピールしたかったポイントから読者を遠ざけてしまうことさえ起こり得るように思います。

新聞は、データを解釈し位置づけるときは、良心からではあっても、強引なことはすべきではないと思います。

次に、「送金指示メール」記事について。

この日の記事は、〈永田寿康衆院議員を議員辞職させず二十七日からの週内に謝罪の記者会見を開いて収拾させる方向で検討に入った〉とし、〈執行部の責任問題について、前原氏は(中略)自らの引責辞任を否定〉したと報じています。

この問題においては、道新を含め新聞は、民主党に非難を浴びせています。ただ、なんか物足りない感じがします。なぜそう感じるのか考えてみたのですが、どうも、永田氏に対しても民主党に対しても、厳しさが足りないような気がするのです。

これまでの報道をみる限り、国会質問の前にメールの真偽を確認する作業はしなかったようです。永田氏および民主党の、大きな落ち度です。

ただ一般論として、真偽がはっきりしない情報について質問したり、相手の反応をみたりすることは絶対だめかというと、そうは思いません。とある情報を得たがこれは本当か? と国会で尋ねたって、聞かれたほうは、違うなら違うと答えればよいのです。でたらめな質問によって名誉や信用を傷つけられる、という主張もあるでしょうが、自ら進んで公人になる人は、火の粉がふりかかることぐらいは覚悟すべきでしょう。だいたい、いい加減な質問というのは、ほどなくいい加減だと判明し、結局は質問した人が信用を落とすことになるので、そんなに多くは出ないはずです。

とはいえ、今回の永田氏の国会での発言は、「質問」の範ちゅうを超えていたように思います。自民党の武部幹事長について「金で魂を売っている」と断定し、その証拠もあると言いながら、それが何なのかを明らかにしないのは、言いがかりといわれても仕方ありません。入手した情報の確度を見極めないまま、思い込みで突っ走った感じがあります。

今回の騒動でさらに深刻だと思うのは、国会で勇んで追及しておきながら、旗色が悪くなると病院に逃げ込んだことです。これはもう、永田氏には政治家の資質が決定的に欠けていると判断していいと思います。国民に対する説明責任を理解していない、または、そんなことより自分や党のことを優先できると思っているのでしょう。

こうした人物がいろいろと情報を集め、それをもとに政策を打ち出したり推し進めたりすることを想像すると、ぞっとします。彼の給料となる税金がもったいないのはもちろん、彼が政治家を続けるのは有害ではないかとさえ思います。とうてい、〈「永田氏謝罪」で収拾〉すべきことだとは思えません。すみやかに国会議員を辞めてもらい、繰り上げで別の人を議員にしたほうが、よっぽど世の中のためになるのではないでしょうか。

新聞が野党に甘くなりがちなのは理解できますし、それが全面的に悪いとも思いません。しかし今回は、このままメールの真実性を証明できないのであれば、少なくとも永田氏については、辞職すべきだとはっきり言うべきでしょう。相当の理由がある場合(今回はすでにあるような気がします)、有権者にかわって政治家にきっぱりとダメ出しをするのも、新聞の大事な役割だと思います。
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by tmreij | 2006-02-26 23:23 | 津々浦々

受験生を混乱させていないか

国公立大学の入学試験(2次)が始まりました。きょう(2006年2月25日)の北海道新聞夕刊は、社会面でこのことを伝えています。

〈合格へ 静かに闘志〉〈道内は1万2000人挑戦〉という4段見出しと、受験会場(北大)の写真をつけたこの記事は、道内で試験に臨む4人の声を、氏名、高校名、受験する大学名入りで紹介。以下のような言葉が、受験シーズンの緊張感を盛り上げています。

〈「厳しい争いになると思いますが、今まで培った力を出して頑張りたい」〉(公立はこだて未来大)、〈「親の期待もあるので、何とか今年で決めたいと思います」〉(旭川医大)

少子化とはいえ、今も昔も受験は大変だよね、がんばってね、という気になってきます。

で、記事を読み進めていくと、すぐ下に〈「競争を促進」と教育改革を批判〉という見出しのベタ記事が目に入ります。

ここでは、津市で始まった日教組の教育研究全国集会の様子を報告。森越康雄委員長がライブドア事件に触れ、〈「教育は競争原理や抜け駆けを争うマネーゲームと対極にある」〉〈「社会や会社に役立つよう育てる大人の都合で、競争においやっている」〉と指摘したことを伝えています。

受験生は勉強で精いっぱいで、新聞を読む余裕などないかもしれません(多くの新聞は、受験に役立つとして読むことを勧めていますが)。でも、もし読んでいたら、少なからず混乱するのではないでしょうか。

上の記事では〈闘志〉〈挑戦〉などの見出しで、受験競争におけるがんばりについて書かれているのに、下の記事では〈「大人の都合で競争に追いやっている」〉と受験などが批判されているのです。入試に関係ない人だって、どう考えていいもんだか、という気になってくるように思います。

こうした紙面は、読者の気持ちを落ち着かなくします。ただ、それがよくないことかというと、必ずしもそうではないと思います。読み手を刺激し、考えるきっかけを提供する構成だと、評価することもできると思います。

でも今回は単に、わけわかんない、という印象を読者に与えるだけになっているように思います。それは、受験競争への批判を伝えるだけで、じゃあどんなふうなのがいいのか、という部分が記事にまったくないからです。

もしかしたら、教研集会が言いっ放しの会合で、対案は出なかったのかもしれません。そうであれば、記者が日教組としての見解を取材し、記事に盛り込むべきでしょう。集会が始まったばかりで、これからそういう話が出るのであれば、記事だってあせってきょう出すことはないように思います。読者にすれば、1日や2日か後になったって、中身のある記事を読みたいと思うのではないでしょうか。

新聞としては、現在の教育システムへの批判や皮肉を込めて、きょうのような紙面にしたのかもしれません。そうした狙いをもつことは悪いことだとは思いませんが、今回はうまくいっていないように思います。

もうちょっと情報を追加さえすれば、受験生に不要な混乱を与えずにすむでしょうし、建設的な議論を呼び起こす効果も高くなったように思います。

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受験の記事は道新によるものでしょうが、津の教研集会の記事は通信社や提携新聞社の配信によるものだと思います。紙面構成は、もちろん道新によるものです。
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by tmreij | 2006-02-26 09:10 | 津々浦々

村主選手は、なぜ4位なの?

トリノ五輪フィギュアスケート女子で、荒川静香選手が優勝しました。きょう(2006年2月24日)の北海道新聞夕刊は、荒川選手を中心にフィギュア女子3選手の健闘を、1面や中面(見開きカラー写真つき)、社会面などで大々的に報じています。

フリーの演技をテレビで観戦したのですが、 フィギュアスケートの採点についての知識はゼロに近い素人ながら、結果には少し違和感を覚えました。その違和感を解消してくれることを期待して新聞を待ったのですが、あまり効果はありませんでした。

フリーにおける荒川選手の滑りは、金メダルに値する素晴らしいものだったと思います。安藤美姫選手はミスが多く、15位というのも妥当なところではないかという気がします。しかし、村主章枝選手の4位というのは、なぜなのでしょうか。

荒川選手の勝因のひとつは、ショートプログラムで上位にいた2選手が転倒するなか、〈フリーはほぼノーミス〉(社会面)だったことだと報じられています。ただ、ノーミスということでいえば、村主選手も同じだったのではないでしょうか。ジャンプはきれいに決まったように見え、スケーティングも滑らかな感じがしました。実際、村主選手のミスによる減点は、荒川選手同様、ゼロでした(安藤選手は減点2.00点)。

実況のNHKのアナウンサーや解説者は、「やった」「最高」などという言葉を漏らしていましたし、演技を終えた村主選手に、立ち上がって拍手を贈る観客がいたとも伝えていました。

それなのに、フリーの得点は、荒川選手が125.32点だったのに対し、村主選手は113.48点。技術点では、8.09点もの差がつきました。

この2選手の差について、きょうの道新はどう説明しているのでしょうか。その点を意識しながら記事を読んでいったのですが、それらしい説明は、中面の〈満足 切なさ 村主涙〉という見出しの記事で、〈(村主選手は)ジャンプの質が低く、メダルには届かなかった〉とあるだけです。優勝した荒川選手の活躍に紙面の多くを割くのは当然だとは思いますが、見事な演技をしながら高い評価を得られなかった(と感じられた)村主選手について、なにがどう足りなかったのか、もう少し説明してくれてもいいように思います。

ジャンプの種類によって点数が違うのはわかります。23日付の道新朝刊は、図つきでこのことを説明していました。ただ、もし村主選手の得点がのびなかった原因がこのジャンプだったとしたら、村主選手は点数が低いジャンプばかりを選んで飛んでいたということなのでしょうか。最初から、上位を狙ってはいなかった可能性もあるのでしょうか。そもそも〈ジャンプの質が低く〉というのは、どういうことを言っているのでしょうか。

村主選手の得点に違和感を覚えたのは、同選手の落胆ぶりを目にしたからでもあります。演技を終えて点数が出たときの村主選手の表情からは、失望感がうかがえました。テレビのインタビューでは涙を流していましたが、感動の涙というよりは、悔し涙のように思えました。技術的なミスはほとんどなかったわけですから、本人としては、当然ながら高得点を期待していたのではないでしょうか。

中面記事には、村主選手の〈点数が出ないのは今後の課題〉というコメントが載っています。この言葉からは、もっと高い点数が出るはずだった、という村主選手の思いが感じ取れるような気がします。

フィギュアスケートに詳しい人は、いろんなことをちゃんと理解し、今回の結果に納得しているのかもしれません。

ただ、新聞の読者には、ずぶの素人だって多いはずです。新聞は、そうした人たちも記事を読むことを前提に、優勝の勝因ばかりではなく、4位の理由についても、わかりやすく書いてほしいと思います。

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この日の道新のフィギュアスケート関連の記事は、社会面を除いてほとんどが共同通信の配信によるものです。
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by tmreij | 2006-02-25 08:39 | 津々浦々

タンチョウ増やしたのは、ご近所の2人?

国の天然記念物タンチョウの北海道内の生息数が、調査開始以来初めて千羽を超えたようです。きょう(2006年2月23日)の北海道新聞朝刊は、この話題を、1面(カラー写真つき)と社会面で報じています。

記事によると、千羽というのは、絶滅の危機から抜け出た目安になる数字だそうです。〈調査を始めた一九五二年は三十三羽で絶滅の危機にあった〉とのことですから、たまたま同じ時代に地球に生きる他の種(ヒト)にとっても、とても喜ばしいニュースだといえるでしょう。この日の道新も、〈関係者に喜びが広がっている〉と書くなど、嬉しさが伝わってくる紙面になっています。

基本的には、喜怒哀楽が感じ取れる記事というのはいいと思います。ただ今回は、ちょっと冷静さに欠けているところもあるような気がします。

今回のニュースで読者が気になることのひとつに、なぜタンチョウの数が増えたのだろうか、ということがあると思います。この点について1面記事は、〈地道な給餌活動などで数を増やしてきた〉と説明していますので、とりあえずは、なるほどね、食べ物がカギだったわけですか、とざっくりと納得することができます。

ただ、具体的にはどういった人や団体がどんな活動をしてきたのか、それによってどんな効果があったのかといった点は、1面ではわかりません。

それを補う意図もあるのかと思いますが、社会面の記事〈タンチョウと半生 給餌続ける男女〉は、繁殖に重要なエサやりを長年続けてきた2人を写真つきで紹介しています。1人は釧路管内鶴居村の85歳の女性で、〈四十年間、毎日朝と昼、給餌をしている。バケツでトウモロコシを運ぶが、深い雪に体ごと埋まることも〉あるとし、もう1人の釧路市阿寒町の75歳の男性については、父親の後を継いで三十三年前から自宅近くでエサをやり続けてきたと伝えています。

これを読むと、タンチョウにせっせと食べ物を与え続け、繁殖に貢献してきたのは、どうやら生息地のご近所さんらしいことがわかります。これら一般人の他に、専門家など公的なスタッフもエサを与えていたのかもしれませんが、この日の紙面からはわかりません。1面と社会面の記事を読んだ限りでは、生息地の近所のおばさん、おじさんが、絶滅の危機からタンチョウを救ったような印象を受けるのです。

もしそうなのであれば、天然記念物に指定しておきながら、国としてそんなのでいいの? という気がしてきますし、新聞としては、そういう視点も必要かと思います。そうではなく、公的な施設やスタッフを中心とし、系統だった繁殖活動をしてきたのであれば、そちらについても、ある程度は説明があってもいいように思います。

この日のニュースは、タンチョウが増えた! ということなのですから、どうして増えたのかというデータは欠かせないはずです。〈地道な給餌活動など〉というわずかな説明と、熱心にエサやりをしてきたおばさんとおじさん1人ずつの紹介だけでは、読者は繁殖の理由があまりよくわからないのではないでしょうか(もしかしたら北海道民にとっては常識なので、説明の必要がないのかもしれませんが)。

喜ばしい話題を新聞も一緒になって喜び、情緒的な苦労話を添えてムードを盛り上げるのはいいと思います。ただ、それだけでは、ちとまずくはないでしょうか。嬉しいニュースに対しても、どこかで冷めた目を持ち続け、読者に何を伝えるべきかを常に意識することが、新聞にとっては大事なように思います。
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by tmreij | 2006-02-24 00:15 | 津々浦々

新聞の「業界エゴ」臭が強くないか

きょう(2006年2月20日)の読売新聞朝刊は、新聞の「特殊指定」の継続を訴える記事を、1面、2面、社説、解説面で大展開しています。

主張の中身をみると、〈活字文化の維持・振興に欠かせぬ〉(社説見出し)、〈憲法が定めた「知る権利」が損なわれることにもなりかねない〉(解説面記事)など、美しい理屈が出てきます。それはそれでいいと思うのですが、全体を通して読むと、なんとなく不誠実な感じがしてきます。

新聞の特殊指定というのは、地域や読者によって新聞の値段をばらばらにすることを禁じる制度です。

新聞社側は、もしこの特殊指定がなくなれば、販売店が割引競争に走るか、逆に〈人口が少なく配達コストがかかる山間部、過疎地などでは、購読料金の値上げや配達打ち切りといった動きが出てくるのは必至だ〉(解説面記事)と訴えています。そして、〈販売店を過当な競争に巻き込んだ結果、サービス向上どころか、国民、読者の利益を損ねてしまっては本末転倒だ〉(同)と憂えています。

ところで、読売はなぜきょう、この問題を大きく取り上げたのでしょうか。ひとつには、公正取引委員会が最近、特殊指定の見直し作業を始めたということがあるでしょう。ただ、より大きな理由として、この問題をテーマにした世論調査を読売が1週間ほど前に実施し、同社の主張に沿う結果が出たということがあると思います。

紙面によると、世論調査の質問は6つ。うちひとつでは、特殊指定について説明したうえで、〈あなたは、この公正取引委員会の(特殊指定)制度を、続ける方がよいと思いますか、そうは思いませんか〉と質問しています。回答は、〈続ける方がよい 69.0%〉〈どちらかといえば続ける方がよい 14.9%〉〈どちらかといえばそうは思わない 5.7%〉〈そうは思わない 4.9%〉〈答えない 5.5%〉となっています。

さらに別の質問には、〈新聞にとって、あなたがとくに重要だと思うものを、次の中から、1つだけあげて下さい〉というのがあり、答えは、〈記事の内容の良さ 81.9%〉〈読者へのサービスの良さ 8.9%〉〈値段の安さ 6.2%〉〈その他 0.3%〉〈答えない 2.7%〉となっています。

こうした結果をもって読売は、ほらほら、多くの国民は特殊指定を続けたほうがいいと思っているし、値段の安さはそんなに大事なことだとは思っていないんだから、指定をやめようなどという考えは改めなさい、と主張しているわけです。

でも、これってなんか、すっきりとはつじつまが合っていないような気がします。

上記のとおり、新聞社が特殊指定の撤廃に反対する大きな理由は、撤廃すれば必ず、販売店で安売り競争が起こると予測しているからです。しかし、〈多くの国民は、新聞に対して価格やサービス面での競争よりも、紙面の内容での競争を求めているようだ〉(1面)と書いているとおり、今回の世論調査では、「値段の安さ」は多くの人にとって優先事項ではないとの結果が出ています。ということは、価格の低さよりも内容の良さで新聞は選ばれるはずですから、仮に安売り競争が起こったとしても、新聞の売れ行きには大きな影響は出ないでしょうし、「知る権利」のダメージも少ないということにならないでしょうか。

なんだかヘン、と思うのは、それだけではありません。次の、解説面記事の記述もです。

〈(この冬、4メートルを超える記録的積雪に見舞われた新潟県津南町)では、家が散在しているため、宅配にはコストがかかる。「もし、定価が守られなくなったら?」。そんな問いかけに、センター所長の津端茂雄さん(65)は「戸別配達をやっていけなくなりますよ」と、即座に答えた〉

新聞の定価が守られなくなることと、戸別配達が続かなくなることに、かなりの飛躍がないでしょうか。定価が守られなくなると、どういうことが起こり、どういう事情から戸別配達が無くなるのか、ていねいに説明すべきところですが、一気に読者に「戸別配達はムリ」という印象を植えつけようとしています。こんなことをするのは、具体的には言いづらいことがあるか、論理的には説明できないからではないか、という気がしてきます。

今回の特殊指定については勉強不足ですので、ここで何らかの意見を表明することはしません。ただ、今回のようなすっきり理屈が通っていない記事を読んでいると、自分たちに都合のいいデータや読者の耳触りがいい論理だけを強調し、何とかして既得権益を守ろうとする「業界エゴ」のような印象を受けます。

新聞は、特殊指定を継続せよと主張するのであれば、値段がまちまちになったらなぜだめなのか、特殊指定が無くても新聞社側の努力で戸別配達を続けられないのか、国民にメリットはないのか、ついでに現在の朝日・毎日・読売の値段がまったく同じなのはどうしてなのか、といったことについて、読者に誠実に、矛盾なく説明すべきだと思います。
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by tmreij | 2006-02-21 00:36 | 本紙

「節度ある取材」に触れないのはなぜ?

滋賀県の幼稚園児2人が、別の園児の母親に殺害されました。きょう(2006年2月18日)の全国紙朝刊は、きのうの夕刊の第一報に続き、この事件に関する記事を1面や社会面などで大きく掲載しています。

ここのところ、小さな子どもが被害者となる残忍な事件が続き、そのたびに新聞は、派手な見出しの記事を載せています。

最近の傾向として、そうした記事のなかで、「遺族の心情を思い、節度ある取材をする」と表明することが増えています。広島と栃木の小1女児殺害事件(それぞれ昨年11月と同12月)や京都の小6女児殺害事件(同12月)でも、主要紙はほぼ全紙、遺族側の「そっとしておいて」という思いと、地元報道各社による「申し合わせ」について伝えています。

では今回はどうかというと、きょうの朝刊まででは、全国紙3紙で「節度ある取材」について報じている新聞はありません。

遺族が気丈にも、できるだけ取材に協力しようという考えなのかとも思いましたが、そうではないようです。きょうの産経新聞と東京新聞はともに、〈取材自粛を要請〉という見出しのベタ記事を掲載。殺された男児の父親が、遺族・親族や近所、弔問客らへの取材の自粛を求める張り紙を、玄関ドアにしたことを伝えています。

産経はさらに別のベタ記事で、〈大津市に拠点を置く報道各社責任者でつくる「十社会」は十七日、「被害者家族をはじめとする関係者の心情やプライバシーなどに配慮し節度を持って取材・報道に当たる」と申し合わせた〉と報じています。

なぜ全国紙は、これらのことを報じないのでしょうか。

こう書くと、全国紙を非難しているような感じになりますが、必ずしもそうではありません。遺族がショックで取材どころではないのは当たり前でしょうし、報道機関が遺族らの思いを考慮して節度ある取材を心がけるのも当然でしょう。どちらもごく普通のことですから、本来はあえて新聞が記事として取り上げることではないはずです。メディアが当たり前のことを当たり前と考えず、遺族らからの抗議の声を受けて、自らに言い聞かせるような記事を載せるほうが、異常なのです。

その意味では、今回の事件報道で「節度ある取材」の記事が全国紙に出ていないのは、本来あるべき状態になったと考えることができるのかもしれません。実際の取材の現場は見ていないので正確にはわかりませんが、これまでの紙面をみる限りは、近所での取材はややうるさいと受け止められるものもあったでしょうが、新聞はおおむね、冷静なふるまいをしているように思います。

ただ、遺族の意向や「節度ある取材」について全国紙が書いていないのは、できるだけ取材活動を制限したくないと考えているからという可能性もあります。ここ何回かの経験から、「節度ある取材」宣言などしていては、読者の欲求を満たす突っ込んだ記事は書けない、と判断したとも考えられます。

いったいどちらなのかは、各紙の今後の記事や、他のメディアなどから聞こえてくる地元住民の声などによって、明らかになることと思います。
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by tmreij | 2006-02-18 20:48 | 本紙

「一夫多妻」報道に、新聞の未熟さがみえる

複数の女性たちと集団生活を送っていた東京都東大和市の男性が、脅迫の罪で起訴されました。きょう(2006年2月16日)の読売新聞朝刊は、社会面ベタ記事でこのことを伝えています。

この「事件」とそれに関する報道については、1月下旬にマスコミが騒ぎ出した当初からずっと、心が落ち着きませんでした。なんだか、法治国家らしくない乱暴なことが行われ、それを報道機関がサポートしている感じがするのです。

ご存知の方も多いと思いますが、起訴というのは検察官が「こいつは犯罪人だ」と確信したときにします。警察が容疑者を逮捕し、検察が取り調べを引き継いでも、法を犯した疑いが無かったり、不十分だったりした場合には起訴しません。原則として、裁判で有罪にできると判断したときだけ裁判所に起訴状を出し、裁判というプロセスをスタートさせるわけです。

では、今回の事件では、検察官はどんな確信をもっているのでしょうか。読売は、以下のように報じています。

〈起訴状などによると、○○容疑者は昨年10月20日夕、集団生活をしている民家を訪れた女性(21)に生活に加わるよう勧誘し、「ここを出ていったら命の保証はしない。事故に遭ったり病気になったり、殺されたりする」と言って脅した〉

「殺す」ではなく「殺されたりする」というのが、なんとも迫力に欠けますが、それでもこの言葉を脅しと受け止めようと思えば受け止められるかとは思います。ただ、「おめー、ぶっ殺すぞ」「あんた、ただじゃおかないからね!」といった、もうちょっとスゴミのある言葉が恐らく全国津々浦々で日常的に飛び交っているであろうことを考えると、〈「事故に遭ったり病気になったり、殺されたりする」〉という言葉で起訴に持ち込むのは、ちょっと苦しいのではないかという気がしてきます。

そんななのに、検察ががんばるのはなぜでしょうか。それはやはり、「一夫多妻」(読売も毎日も見出しにこの言葉を使っています)のような暮らしを送る男をだまって野放しにしておくわけにはいかない、という使命感のようなものがあるからではないかと思います。

ただ、その検察の思いが正しいものかというと、そうは思いません。率直に言って、すごく間違っているように思います。

日本の法律は、同時に複数人と結婚すること(重婚)は禁じています。しかし今回の男性は、〈これまでに10人の女性と延べ12回の結婚をしていた。婚姻期間がわずか9日間しかない女性がいたほか、離婚届を出したその日に、別の女性との婚姻届を出すということを繰り返していた〉(1月26日付読売=ウェブ版。以下も)ということはあったようですが、重婚していたという話はありません。結婚という手続きに関していえば、法律を破ってはいないのです。

手続きは破っていなくても、結婚という制度や概念を破壊している、という指摘があるかもしれません。しかし、結婚というものをどう考え、どんな暮らし方をするかというのは、まったく人それぞれのはずです。結婚や家庭、家族というのはこうでなければならない、こうあるべきだ、という理想や観念は、自分で大切にする分には大変結構ですが、他人に押しつけるべきものではないと思います。男1人、女10人で住もうが、女1人、男20人で暮らそうが、男だけで生きようが、女ばかりで過ごそうが、法律に違反せず、当事者が合意している限り、どんな生き方も最大限尊重されるべきです。

起訴された男性は〈「女性が多く集まれば収入が増え、自分の生活も安定する。欲も満たすことができる」〉(2月9日付読売同)とも供述しているとのことですが、これさえも、個人的にはあまり好きな考え方ではありませんが、ライフスタイルのひとつとして認められるべきです。

このように、今回の逮捕・起訴は国家機関によるかなり乱暴な行為だと思うのですが、警察・検察がもともと乱暴な組織であることを考えると、それほど驚きはありません。それよりも、本来なら今回の逮捕・起訴が妥当かどうかを厳しくチェックすべき新聞が、捜査機関と一緒になって「あいつらけしからん」とやっているほうが、問題としてはずっと深刻です。

例えば、読売(ウェブ版)は、〈多数の女性と不自然な集団生活をしていた○○容疑者〉〈不自然な結婚・離婚が始まったのは……〉(1月26日)、〈不自然な集団生活を断った20歳の女性が脅かされた事件で……〉(同27日)と「不自然」を連発。「不法」と違って「不自然」は本来、非難される性質のものではありませんが、記事は明らかに男性たちに批判的です。また、〈近所の無職男性(53)は「いつまで集団で住み続けるつもりだろうか」と不安そうだった〉(2月15日)などと、不安を報じるふりをして不安を煽ってもいます。

他の新聞も、非難の調子に強弱の差こそあれ、男性たちを奇妙な存在として報じることで異端を排除しようといった意識がうかがえます。

読売はまた、〈専門家は、男と同居している女性たちはマインドコントロールされている可能性があると指摘している〉(1月26日)と書くなど、率先して男性を悪者にしようとする動きさえ見せています。ただ、この「マインドコントロール」はかなり難しい問題で、仏教やキリスト教など一般的に受け入れられている宗教だって一種のマインドコントロールでしょうし、成人男女1人ずつで家庭をもつべきだという認識だってマインドコントロールと言えるでしょう。問題とすべきはマインドコントロールではなく、それによって引き起こされる違法行為のはずですが、読売はそこの区別がきちんとできていないように思えます。

日本は、自由を尊重し法によって治める国のはずです。そして新聞は、日本がきちんとそういう状態であり続けるよう、国家機関の一挙一動に目を光らせ、絶えず批判を繰り出す存在であるはずです。

それが今回は、捜査機関にすっかり同調し、必要以上に自由を制限する国家権力の一部になってしまっているように感じます。新聞は、自らの役割について考え直したほうがよいと思います。
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by tmreij | 2006-02-17 01:11 | 本紙

「無理心中」を安易に想定していないか

中越地震で被災し、親族宅に身を寄せていた高齢者夫婦が、遺体で発見されました。きょう(2006年2月15日)の毎日新聞、読売新聞の朝刊は、ともに社会面でこのニュースを報じています。

この種の出来事で新聞がよく使う言葉に、「無理心中」があります。今回も2紙とも、この言葉を使用。読売は見出しでも、〈無理心中か〉と書いています。

読むほうにとっても、何気なく読み過ごしてしまうような言葉ですが、本当はかなり注意して取り扱われるべき言葉のように思います。

無理心中を広辞苑(第5版)で引くと、「合意でなく、心中を欲しない相手を殺して、自分も共に死ぬこと」とあります。

今回のケースでは、夫(88)が室内で首をつって死んでおり、そのすぐそばのベッドの中で、妻(81)が右腕に刃物の傷をつけた状態で亡くなっていたとのことです。また、〈「迷惑をかけて申し訳なかった」〉(毎日)、〈「お世話になった。申し訳ない」〉(読売)などと書かれた遺書と、〈血の付いた刃物〉(読売)が見つかっているようです。

これらの状況から、〈(新潟)県警長岡署は、夫妻が無理心中をしたとみて調べている〉(毎日)、〈同署は無理心中とみて調べている〉(読売)と、両紙は伝えています。

妻が〈約4年前から寝たきり〉(毎日)だったことも考え合わせると、無理心中だった可能性はあると思います。ただ、上記のようなことが無理心中の決め手となるかというと、そうはならないと思います。一方、紙面をみる限り、無理心中ではない可能性――妻も命を絶つことを望み、夫に伝えていた――も、そう低くはないようにも思います。

このような状況で、新聞が「無理心中」という言葉を使うことは、フェアだといえるのでしょうか。警察の見立てだから仕方ないじゃん、という意見はあるかと思いますが、じゃあその見立てについて、新聞は根拠をしっかりと問うたのでしょうか。もし問うたうえで、納得して「無理心中」と書いたのであれば、読者に対しても当然、その根拠を説明すべきです。

「無理心中」という短い言葉には、表現は適切ではないかもしれませんが、ドラマチックな響きがあり、読者の情感に訴える強いインパクトもあるように思います。それだけに、自殺体とその親族の死体が一緒に見つかったときには、新聞はつい安易に頼ってしまってはいないでしょうか。

無理やり命を奪ったという点で、無理心中が普通の心中や嘱託殺人より不名誉であろうことを考えると、合理的な根拠がないのであれば、新聞はあえて無理心中について触れる必要はないのではないでしょうか。もし強力な根拠があるのであれば、それをきちんと伝えたうえで、無理心中の可能性について語るべきだと思います。
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by tmreij | 2006-02-16 00:35 | 本紙