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番組表の特別扱いは、問題じゃない?

きょう(2005年12月31日)の朝日新聞で、ふだんはあまり眺めないテレビ欄をじっくりと見ていて、改めて違和感を覚えました。以前から何となく気にはなっていたのですが、特定の番組だけ色が変わっていて、目を引くようになっているのです。

きょうの紙面では、「今夜生でNo.1を決定!!輝け!2005年・お笑いネタのグランプリ!!」(日本テレビ、午後8時〜11時)が黄色に色づけられ、「K—1プレミアム2005格闘技史上最大の祭典Dynamite!!」(TBS、午後9時〜11時40分)が水色に着色されています。新聞紙の事務的な色に活字がびっしりと並ぶ中で、この2つの番組部分は際立っています。

はじめは、朝日新聞としてのおすすめ番組かと思いました。しかし、公器である新聞が、民放の個別番組(しかも「お笑いネタのグランプリ!!」といった内容のもの)をプッシュするというのは、ちょっと考えにくいものがあります。それに、朝日新聞が強調するのであれば、系列のテレビ朝日の番組を選ぶのが自然でしょうから、その点からも「おすすめ番組」というのは、ちょっと違うように思います。

次に考えたのは、テレビ欄のコラムで取り上げたり、小さな紹介記事を載せたりしている番組なのかも、ということでした。しかし、この日のコラムは、「紅白歌合戦」「K—1 Dynamite」「PRIDE男祭り05」の3番組を素材にしているのですが、色がついているのは「K—1 Dynamite」だけで、他の2番組は地味な新聞色のままです。どうも、紙面で紹介した番組だから、という理由でもなさそうです。

気になるので、きのうのとおとといの朝日も見てみました。きのうは「笑いの金メダル2005年総決算!!賞金400万円『笑—1グランプリ』」(テレビ朝日、午後9時〜11時25分)が、おとといは「史上最強のメガヒットカラオケBEST100」(テレビ朝日、午後6時半〜9時15分)が、ともに背景に黄色が塗り込まれ、目立っています。

そして、下のほうに目をやると……と、ここでようやく気づきました。きのうもおとといも、テレビ欄左下部に大きく派手なカラー広告が出ていて、そこで宣伝されている番組が、番組表で色付けされているのです。

で、きょうの新聞に戻って見てみると、テレビ欄左下部のカラー広告は入浴剤のものですが、中央下部に、〈TBS独占 曙vsボビー 今晩9時〉という小さなカラー広告が出ています。さらに、16、17面には2ページ見開きで、大々的な「K—1 Dynamite」の番組宣伝広告も載っています。一方、「輝け!2005年・お笑いネタのグランプリ!!」についても、テレビ欄にこそ広告はありませんが、その裏面にあたる社会面に、やはりカラーの宣伝広告が出ています。

どうやら朝日新聞は、テレビ局が大金を払って広告を出稿してくれた番組について、番組表で読者の目を引くような扱いにしているようなのです。

これって、どうでしょうか。

番組表といえども、最終的には新聞社の責任で編集・掲載しているはずですから、新聞記事といえると思います。その記事に登場する番組を、広告を出してくれたという理由で色づけし、優遇しているようなのです。

これは例えば、経済面に新車に関する記事があり、同じ車の広告も掲載されている場合、記事に出てくる車名やメーカー名などを黄色や水色に色づけするようなものではないでしょうか。きょうの紙面には、アメリカン・エキスプレスやドリームズ・カム・トゥルーの全面広告が載っていますが、もし記事の中に同社や同グループが登場した場合、そこだけ色を変えて目立つようにするのと同じではないでしょうか。

記事に着色などして目立たせるのは、読者の関心をそちらに誘導することになります。重要な点を強調したり読みやすくしたりといった、読者への配慮からそうするのであれば問題はないでしょう。しかし、もし広告を出してくれたからという金銭的な理由で特別扱いしているとすれば、記事(および読者の注意)をカネで売っているようなものです。

いまの朝日のテレビ欄は、新聞の倫理に照らしたとき、かなり危ない線を歩いているように思えます。まぎらわしいことはすっぱりと止めるか、このまま続けるのであれば、黄色や水色の着色が何を意味しているのかを読者にきちんと説明することが必要だと思います。
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by tmreij | 2005-12-31 23:53 | 本紙

男性中心の書き方は、もうやめては

秋田県・泥湯温泉で、旅館に宿泊していた母子3人が亡くなりました。天然ガス中毒が原因とみられています。きょう(2005年12月30日)の朝日新聞は、1面と社会面でこのことを伝えています。

ところで新聞は、日常的に紙面で男女差別を批判し、自由で進歩の精神に富んだ業界とのイメージがあるからか、男女平等が尊重され実践されているメディアだとみられているように思います。

しかし実際は、そうでもありません。きょうの1面の記事からは、男女観に関する新聞の古い体質がうかがえます。

記事は、以下の書き出しで始まります。

〈29日午後5時すぎ、秋田県湯沢市高松の泥湯温泉にある「奥山旅館」の従業員から「宿泊客が倒れた」と119番通報があった。市が管理する駐車場わきの積雪に空洞があり、東京都豊島区の東京大理学部助手、松井泰さん(47)と妻の理恵さん(42)、長男で小学3年の日々太君(8)、次男で小学1年の智足君(6)の計4人が倒れていた。病院に運ばれたが、理恵さんと日々太君、智足君が死亡、松井さんは意識不明の重体〉

このとおり、記事が書かれた段階では、亡くなったのは母親と息子2人でした。不適当な言葉かもしれませんが、この出来事の「主人公」は母親であり、その子どもたちだったのです。

それなのに、記事はまず父親を、住所と肩書き、フルネームで紹介。その後に、母親と子どもを登場させています。

未成年の子どもが、親の氏名に続いて紹介されるのはまだわかります(親といっても父親に限る必要はまったくないはずですが)。しかし、妻が主役であるのに、わざわざ夫を登場させてから、その妻として書く必要はどこにあるのでしょうか。

これは、家族についての話題であれば、一家の中心であるはずの父親(夫)をまず出すのが当然だ、という男性中心の考えが新聞社にあり、それを反映しているからだと考えられます。新聞側は、差別意識はまったくなく、戸籍上の戸主を先に登場させているだけ、と言うかもしれません。しかし、記事を書くにあたって戸主が誰かを取材していることなどまずないはずですから、この理屈は通りません。

さきほどの記事で家族が登場する部分を、ちょっと書き直してみましょう。

「東京都豊島区の松井理恵さん(42)と夫の東京大理学部助手、泰さん(47)、長男で小学3年の日々太君(8)、次男で小学1年の智足君(6)の計4人が倒れていた」

これで、読者や当事者にとって何か不都合や不明な点はあるでしょうか。

社会面の記事は、〈死亡したのは東京都豊島区の松井理恵さん(42)と長男日々太君(8)、次男智足君(6)。理恵さんの夫で東京大学理学部助手の泰さん(47)と一家4人で27日から奥山旅館に宿泊していた〉となっていて、1面と違ってフェアな書き方だといえます。ただ、これまでの同種の報道から判断すれば、これは例外的といえるでしょう。もし新聞社として、男性中心の見方をしないことを原則にしているのであれば、きょうの1面の記事は今回のようには書かれていないはずです。

こうした表現は朝日に限ったことではありません。きょうの毎日、読売の両紙も、まず父親を登場させていますし、恐らく全国の新聞のほとんどが、同じ書き方をしているはずです。だからといって、それが問題がないということにはなりません。問題があるのに、問題だと感じていないところが問題なのです。

父親や夫と「家長」とみて、その他の家族を従属的に表現するような記事は時代遅れで、差別的でもあります。差別と闘うはずの新聞が、差別を拡大再生産しているともいえます。男性中心に家族をみることはやめ、成人であれば男女に関係なく個別の人格としてとらえ、そうした書き方をすべきです。
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by tmreij | 2005-12-30 23:27 | 本紙

マスコミは、信用度で警察に負けている

犯罪被害者の実名を警察が発表しないケースがいっそう増えそうです。実名か匿名かは警察が判断するという項目を盛り込んだ犯罪被害者等基本計画が、閣議決定されました。きょう(2005年12月28日)の各紙朝刊は、この項目について批判的な記事を掲載しています。

例えば朝日新聞は、〈安易な匿名化は避けよ〉という見出しの社説を掲載。社会面にも、〈警察判断「極めて残念」 新聞協会・民放連が声明〉という見出しの記事を載せています。

新聞側の主張は、この日の朝日の社説が書いている内容でほぼ一致しているといえるでしょう。要点を以下に引用します。

〈実名発表を受けて取材し、被害者の意向も踏まえた上で、報道の際に実名にするか匿名とするかをメディアに判断させてほしい〉

結果的には、この願いは聞き入れられませんでした。

なぜでしょうか。決定したのは国会議員(大臣)たちなので、自分たち国家権力に都合のよい方向に事を運んだと考えることはできます。もちろんそうした面もあるでしょう。しかし今回は、大臣たちが国民の間にある「空気」を感じ取っていて、それを反映したということもできるのではないでしょうか。

その空気とは——マスコミのやることはひどい。警察とマスコミだったら、まだ警察のほうが自分たちのことに配慮した対応をしてくれるだろう——というものです。

つまり、信用度において、新聞を含めたマスコミは警察に負けているわけです。

警察という組織は、国民の安全や財産を守るために立派な仕事をしますが、一方で、特権を利用して様々な人権侵害や不正もします。ただ、いまだ根強いお上意識もあり、多くの国民は警察に強い信頼を寄せています。そのこと自体は本来、悪くはないと思うのですが、権力は必ず腐敗するものだということも国民は知っておかなくてはならないはずです。信用しつつ、監視の目をもつことが大事なはずです。

しかし、ふつうの国民には警察権力の監視などなかなかできません。それで、その監視の役割を担うのが、マスコミです。警察を含めた権力へのアクセスを許可され、国民の立場で質問をぶつけることが期待されているのです。

これは、国民がマスコミを信頼しているからこそ機能する仕組みです。警察は悪いこともする。だから国民は、自分たちと同じ立場にいる(はずの)マスコミに信頼を寄せ、警察など権力に対して警戒させ、追及させる。それが本来の構図のはずです。その構図の中に、実名発表もあるはずです。

その信用の構図が、いまは逆になっています。警察さん、やりたい放題のマスコミを何とかしてください、という雰囲気が広がっています。そして、議員らはそうした空気を敏感に察知しているのです。

今回の基本計画に反対の声を挙げているのはマスコミばかりで、国民の多くは無関心、または歓迎といった感じです。このことは、マスコミが国民の共感や支持を得られていない何よりの証拠です。

警察に実名発表を求めることは間違っていませんし、当然のことだと思います。マスコミとして、がんばりどころでもあります。

しかし、ただ声高に「判断はこっちに任せろ」と主張したってダメです。マスコミ報道の受益者であるはずの国民は白けています。この白けた空気を、メディアへの信頼に変えることが先です。

そのためにどうするか。まずは新聞をはじめマスコミが、自分たちの行き過ぎや間違いについて具体的に例を挙げて率直に反省することが必要です。そして、今後の取材方法や記事の書き方などについて指針を打ち出し(もちろん公開し)、それをチェックする第三者機関を設けることだと思います。

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以下の文章でも実名・匿名発表のことについて書いています。

実名発表のために新聞は何をするのか
おじいちゃんの名前は書かなくていい
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by tmreij | 2005-12-28 23:55 | 本紙

読者をナメたままで、朝日の信頼回復はない

虚偽メモ報道などで今年大いに揺れた朝日新聞は、きょう(2005年12月27日)の朝刊1面で、再生に向けた改革案をまとめたと報告しています。

〈読者のみなさまへ〉〈信頼回復へ抜本改革〉といった見出しをつけたこの記事は、〈みなさまの信頼を損なってしまったことを反省し、時代を担うジャーナリズムとして再生することをめざします〉と宣言。読者による記事評価制度をつくり、東京本社の編集局長を2人制にすることなどが中心だと書いています。

へー、読者による記事評価って興味深い取り組みだけど、どうやってするんだろう。そう思いながら100行近いこの記事を読み進めたのですが、結局最後まで具体的な説明はありません。唯一あるのは、〈読者代表の方々に、記事の良い点、至らぬ点などを丹念にお聞きしようと思っています〉という漠然とした記述だけです。内側のページに詳しく書かれているのかとも思いましたが、お決まりの「○面に詳細」といったことわり書きはありませんし、実際に中身をめくっても関係記事は見当たりません。

こんなんで、朝日新聞は本当に信頼回復する気があるんでしょうか。

記事は、お題目や目標は高々と掲げています。〈●読者の声に耳をすます新聞に〉という小見出しがついた文章では、〈私たちは読者の声に耳をすまし、時代に切り込む新聞をつくりたいと思います。質が高く、個性的で、独自性に富み、勢いのある紙面です〉と、目をキラキラさせて希望を語っています。

結構なことです。でも、夢を語るだけなら誰だってできます。こうしたい、ああなりたいと目標ばかり聞かされたって、具体的に何をするのかを言ってもらわなくては、信頼したいと思ったとしても、しようがありません。ふだんは役人やビジネスマン、議員などに向かって、とにかく具体的な説明を求めているのに、自らのことになると、ふわふわした願望や制度名を公表するだけで、詳細についてはちっとも語る気がみられないのです。

ちょっと細かいですが、〈読者代表の方々に、記事の良い点、至らぬ点などを丹念にお聞きしようと思っています〉という文章も気になります。なぜ〈……丹念にお聞きしようと思っています〉なのでしょうか。どうして「……丹念にお聞きします」ときっぱりと言えないのでしょうか。もしかすると、読者の声を聞こうかとも思っているけど、やっぱりやめるかもしれない、といった程度の計画ではないのかとも思えてきます。

考えようによっては、新制度の中身を読者に知らせる必要なんかない、と判断している可能性もあります。いろいろ言われると面倒だから、細かい方法については知らせたくない、という気持ちがあるのかもしれません。後日書くつもりなんだから、ちょっと待っててよ、ということなのかもしれません。そうであれば、そう明記すべきです。

何にしろ、読者の信頼を損ないこそすれ、回復に役立っているとはいえない内容です。

記事にはまた、記者教育の場として「朝日ジャーナリスト学校」なるものを創設するとの記述があります。しかしこれについても、具体的にどんなことをするのかといった説明はゼロです。読まされるほうにしてみれば、疑問と疑心が募るような内容です。

こんな告知記事を1面を割いて載せるなんて、朝日は根っこのところで感覚がズレているように思います。根っことは何かというと、読者との向き合い方です。読者と対等に、誠実に向き合う姿勢や心持ちが感じられないのです。

朝日に期待している人は少なくありません。社内ではなく、もっと読者を向いて再生を考えるべきです。
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by tmreij | 2005-12-27 23:11 | 本紙

女子フィギュア「最強の陣容」との評価は都合よすぎ

トリノ五輪(来年2月)に出場する女子フィギュアスケートの日本代表選手3人が決まりました。きょう(2005年12月26日)の全国紙各紙朝刊は、スポーツ面などでこの話題を大きく取り上げています。

代表を選出するにあたって、日本スケート連盟は今回、初めてポイント制を導入しました。今季だけでなく、昨季の成績ポイントも加点して代表選考をすすめ、安藤美姫、村主章枝、荒川静香の3選手に決めたわけです。

このポイント制による選考結果について、読売と毎日はまるっきり異なった見解を載せています。

〈現戦力で最強の陣容が整ったと言える〉と高く評価したのは読売です。スポーツ面の署名記事で、〈連盟には「勝てる選手を出す」という隠れた基準もあったのだが、今回のポイント上位3人は、この点もクリアに近い〉と支持し、さらに〈荒川が言うように「タイプが違って、レベルが高い3人」がそろった〉と代表選手を持ち上げています。

これに対し毎日は、同じくスポーツ面の署名記事で、〈最強の3人を選んだかというと疑問が残る〉と主張。五輪代表の顔ぶれに批判的な見方を示し、〈現時点では、試合ごとに急成長している中野(友加里)や、復調した恩田(美栄)の方が、不調の安藤より力が上だ〉と、その理由を挙げています。

このように、新聞によって評価や意見が違うのは、結構なことだと思います。事実関係が新聞によって異なるのは困りますが、何らかの事実をどう見るかというのは人によってばらばらで当然ですから、新聞が違えば見解が違うのは自然なことです。読者にとっても、幅広い意見に触れた方が、自分の考えをまとめるうえで役に立つと思います。

ただ、きょうの読売の記事が読者にとってよい参考になっているかというと、そうはいえないと思います。どうも、自らの主張に都合の悪いデータを省いて、論を展開しているように見受けられるからです。

例えば、代表の座を逃した中野選手は、〈今季、安藤にはNHK杯、GPファイナル、全日本選手権と直接対決ではすべて勝利し、今季の獲得ポイントだけを見れば、五輪代表候補の中ではトップ〉(朝日)でした。スケーターとしての勢いと、今季に限った実力でみれば、安藤選手よりも中野選手の方が上だといえるわけです。

毎日の記事は、このことにちゃんと注目しています。記事中、〈ポイント4位の中野は今季、安藤にはNHK杯、GPファイナル、全日本と3戦すべて勝利し、今季の獲得ポイントは最多〉と紹介しています。

ところが読売には、この点に関する記述は見当たりません。

また、読売の署名記事は、〈自らの査定方法を信じるなら、獲得ポイント1位の安藤を選ぶのは当然〉と書いています。では、日本スケート連盟が今回のポイント制による選出方法を信じているかというと、その点についての説明はありません。〈安藤を選ぶのは当然〉と言い放つだけで、その前提となる〈自らの査定方法を信じるなら〉という部分についての検証がないのです。

なぜないのかは、朝日と毎日を読むとわかります。朝日は〈(連盟の)小野(長久)フィギュア部長は「現行のポイント制には問題もある」と話した〉と記していますし、毎日も〈小野部長が「ポイント制には問題もある」と認める〉と伝えています。連盟には、査定方法を信じない声が出ているのです。

このように読売の記事は、今回の選考について読者が考えるうえで大事なデータを落としています。〈最強の陣容が整ったと言える〉という結論に行き着くため、わざと言及しなかったのではないかという気もします。

新聞が個性を出して意見を表明するのはよいことだと思います。しかしその際、自らの主張に合わないからといって、重要なデータを省くべきではありません。そうした行為は、読者に対して不誠実ですし、読者をミスリードします。自論に不都合な事実もちゃんと紹介したうえで、それを上回るデータや理屈で読者に向き合うべきだと思います。

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この日の朝日は、読売や毎日のように明確には意見を表明していません。した方がよいと思うのですが。
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by tmreij | 2005-12-26 21:59 | 本紙

ジェンダー差別の解消には興味なし?

「ジェンダー」という用語が、来年度改定の男女共同参画基本計画に残る見通しとなりました。きょう(2005年12月22日)の朝日新聞朝刊は、政治・総合面の囲み記事で、この話題を取り上げています。

生物としての性別(セックス)に対し、社会的役割や文化的観点からみた性別がジェンダーです。性器による男女の区別はセックスですが、一家の主という言葉から男性を想定したり、秘書という肩書きで女性だと仮定したりするのは、ジェンダー(に基づいた発想)です。

自民党議員の一部は、このジェンダーという言葉があるために、男らしさや女らしさが否定され、行き過ぎた男女平等が学校で教えられているなどと主張。ジェンダーという表記の削除を求めていました。これに対し、猪口邦子・男女共同参画担当大臣は、ジェンダーを認識して批判的にみることと、性差を無視することは別だなどとし、この言葉の存続を訴えてました。

この日の記事は、基本計画の内閣府案が、ジェンダーという用語を残しているとともに、〈「(ジェンダーが)性差別、性別による固定的役割分担、偏見等につながっている場合もある」〉という記述を盛り込んでいると報告。猪口氏の主張が通ったことを伝えています。

と、ここまではいいのですが、直後に以下の記述が続いていて、びっくりします。

〈また(内閣府案は)、「性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」とした〉

ジェンダーは役割分担を押しつけたり偏見をあおったりすることもある、と警告したその舌も乾かぬうちに内閣府案は、男らしさや女らしさの区別をなくすことはけしからん、と言ってのけているのです。

この「男らしさ」「女らしさ」って、いったい何でしょう。絶対的な「男らしさ」「女らしさ」というものは、あるのでしょうか。仮に「男は度胸、女は愛嬌」といったことを意味しているのであれば、それはモロにジェンダーですし、それ以外の内容だとしても、「〜らしさ」なんてものは人や地域、時代によってまちまちなのですから、やっぱりジェンダーといえるはずです。

つまり内閣府案は、ジェンダーは偏見のもとだが、それでも尊重されるべきだ、と言っているのです。これは、ジェンダー(恣意的な男らしさ、女らしさ)による差別を解消しようなどとは、政府は本気では思ってはいないことを、明確に示しているのではないでしょうか。

それなのにこの日の記事は、内閣府案のでたらめぶりをチクリと刺すことさえせず、猪口氏からは〈「様々なご意見を謙虚に受け止め、計画実施の段階で生かしたい」〉といった生ぬるいコメントしか引き出していません。新聞のこうした体たらくが、非合理な性役割の押しつけや男女の不平等がなかなか無くならない理由のひとつになっているように思います。
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by tmreij | 2005-12-22 23:53 | 本紙

ピアスなし=集中している、でいいのか

元巨人の清原和博選手が、オリックスに入団することになりました。きょう(2005年12月21日)の朝日新聞朝刊は、社会面とスポーツ面でこのニュースを取り上げています。

清原氏といえば、何かと話題になるのがピアス。楽天の野村新監督が強い不快感を示していたことなどが、各紙で繰り返し報じられてきました。

きょうの朝日にも、スポーツ面に〈取ったピアス、意思見えた〉という見出しの署名コラムが載っています。来年39歳という年齢や故障がちな下半身を理由に、来季の活躍を疑問視した後、以下のように結んでいます。

〈巨人ではとかく評判の悪かったピアスは、オリックス入りを表明したとき耳になかった。グラウンド外の喧噪を封じ込め、野球に集中しようという姿勢が、この日は見えた〉

いつもしていた(と思われる)アクセサリーを外したのですから、恐らく何らかの心境の変化があったのでしょう。その変化を見逃さずに記事に取り入れる点は、評価できると思います。

ただ、ピアスをつけていない=野球に集中している、という図式はどうでしょうか。

これは逆を言えば、ピアスをつけている=野球に集中していない、ということになります。中学生がパーマをかけている=勉学に集中していない、というのと同じで、日本ではおなじみでわかりやすい発想ではあります。でも、これってあまりにステレオタイプで、ほとんどギャグの世界ではないでしょうか。外見に気を使う人は、本分に対して堕落している、という説は、どれだけ証明されているのでしょうか。

ピアスをすれば周囲の人に批判を浴び、それが気になって野球に集中できない。だから、ピアスを外せば野球に集中できるはずだ。そういう理屈も成り立つかもしれません。

しかし、この発想で問題とすべきは、ピアスではなく周りで騒ぐ人たちでしょう。ピアスをつけていたって、鼻輪をぶら下げていたって、集中できる人はできるはずです。中学や高校では坊主刈りだった人たちが、プロになったとたんに髪を伸ばしたり染めたりしていますが、外見に気を使うことが集中力の欠如につながるのであれば、これらの選手たちも、野球に十分に集中していないということになるのでしょうか。外見なんかに気を向けて、あーだこーだ批判する野村氏のような人たちこそ、選手の集中の邪魔をしているのではないでしょうか。

新聞などマスコミも、このお邪魔勢力の一翼を担っているのは間違いありません。今回の記事のように、ピアスをつけていない=野球に集中している、と書くことで、へんてこりんな精神論を拡大再生産しているのです。

きょうの朝日の紙面には、清原氏との一問一答も載っていますが、ピアスについて質問した様子は見当たりません。ピアスと、それが象徴する心構えについて書くのであれば、まずは清原氏本人に、ピアスを外した意味をちゃんと聞くべきでしょう。それでもし、野球に集中するためだ、という答えが返ってきたら、そのやりとりをもとに、清原氏の心の動きを描くべきです。

そうした確認をせずに安易に怪しげな精神論を繰り出すのは、新聞にとっても野球にとっても、よくないと思います。
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by tmreij | 2005-12-21 22:05 | 本紙

ディズニー原画は「発見」なのか

千葉大学が、ディズニーのアニメ原画を保管していると発表しました。きょう(2005年12月20日)の毎日新聞は、朝刊社会面の記事〈ディズニーアニメ 初期のセル画250点 四十数年ぶり、千葉大で発見〉で、この話題を報じています。

記事は、囲み線がつけられ、原画の写真2枚が添えられるなど、目立つ扱いになっています。見出しのとおり、40数年ぶりに貴重な原画が発見されたのであれば、ニュース価値の高い話題だといえるでしょう。ただ、記事を読む限り、「40数年ぶりの発見」という位置づけに違和感を覚えます。

記事では、千葉大で原画が保管されていた経緯について、以下のように説明しています。

〈これらの原画は60年、都内の百貨店などで映画紹介の美術展で転じされ、ディズニー側が国立近代美術館に寄贈した。アニメを研究していた同大工学部の故・源田秀三郎教授が63年、教育用に譲り受けた〉〈原画の存在は関係者しか知らなかったが、同学部助手が退官が近づいた03年末に取り扱いを教授に相談。ディズニー社で本物と確認された〉

この記述からは、原画は所在がわからなくなっていたわけではなく、関係者は千葉大で保管されていることを知っていたことがわかります。また、誰かが探し求めていたわけではなかったこともわかります。

こうした状況で、〈四十数年ぶり、千葉大で発見〉という位置づけは、果たして妥当でしょうか。どちらかというと、「40数年ぶり、千葉大で再確認」「40数年ぶり、千葉大で再評価」といった感じのように思います。

今回の記事は、見出しだけでなく記事本文でも、〈千葉大学は(中略)約250点の原画が四十数年ぶりに発見されたと発表した〉と書いています。もしかしたら、千葉大は「発見された(した)」と言ったのかもしれません。しかしだからといって、前述の経緯を知りながら、そのまま紙面で「発見」と表現するのは、読者をミスリードしていることにならないでしょうか。

今回の話題は、他の全国紙も社会面でカラー写真付きで伝えています。

「発見」という言葉を見出しなどに使っている点では、読売も同じです。〈40年の眠り ”美女”目覚め ディズニー原画 千葉大で250点発見〉という見出しを付け、本文でも〈発見されたのは……〉と書いています。また朝日も、見出しや本文では「発見」という表現は使っていないものの、写真説明で〈発見された「わんわん物語」のストーリースケッチ〉と記述しています。(ちなみに朝日の見出しは、〈ディズニー「お宝」250点 千葉大が原画保管〉で、3紙の中ではもっとも妥当だといえるでしょう)

そして、両紙とも毎日と同じく、原画の移転状況(1960年から国内の百貨店などで展示→国立近代美術館→源田・千葉大教授)がわかっていたことにも触れています。

新聞としては、「発見」というパンチがあって切れのいい言葉を、ついつい使いたくなるのはわかります。しかし、記事にパンチ力をつけるよりも、現実に忠実な言葉を選ぶことを重視すべきだと思います。
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by tmreij | 2005-12-20 23:53 | 本紙

「決意固めた=入団決めた」に、何でなるのか

新聞はいわゆる「大衆」を客にしている発行物ですから、専門知識や予備知識がない読者にもわかるような記事を書くことが基本のはずです。しかしたまに、結論とそれを裏付けるデータに飛躍があったり関連がよくわからなかったりして、なんでこんなことが言えるの? と首をかしげたくなる記事に出くわします。

きょう(2005年12月19日)の朝日新聞朝刊の社会面記事〈清原、オリックスへ〉も、そんな記事のひとつです。

記事はまず、〈巨人を自由契約になった清原和博内野手(38)=写真=のオリックス入団が確実になった〉と報じています。〈確実になった〉わけですから、100%決まりということです。ここまで強く断定するからには、それなりの裏付けがあってのことでしょう。読者としては、いったいどんな動きがあったのかと気になるところです。

読み進めると、どうやら次の段落に書いてあることが、直接の「裏付け」のようです。そこには、こう書いてあります。

〈18日、ハワイから帰国した清原は「(亡くなった)仰木さんへ、いい返事ができそうか」の問いに「そういうことも含めて、20日にみなさんに話をしたいと思います」と、決意が固まっていることを示唆した〉

このやりとりからは、清原氏の決意が固まっていることは、確かにうかがえます。固まっているからこそ、20日に話すと言ったのでしょう。

しかしなぜ、〈決意が固まっていることを示唆〉=〈入団が確実になった〉、になるのでしょうか。「チャーハンとラーメン、どっちにするか決めた?」と聞いて、「うん、決めた」と答えが返ってきても、その時点では、相手がチャーハンを食べるのか、それともラーメンなのかは、ふつうわからないはずです。

今回の記事では、以下のような解説が続きます。

〈来季も現役を続けることを明言している清原は、オリックスと2度交渉し、今月12日には条件提示も受けた。当初獲得に興味を持った楽天は、野村新監督の方針で回避。他に獲得に乗り出す球団もないことから、オリックス入りが確実になった〉

なんだ、こういう状況であれば、〈入団が確実になった〉と書くのは問題ないじゃないか、と思う人もいるかもしれません。もしかしたら、記事を書いた記者にも、いく分かはそういう気持ちがあったのかもしれません。

しかし、〈来季も現役を続けることを明言〉+〈楽天は、野村新監督の方針で回避。他に獲得に乗り出す球団もない〉=〈オリックス入団が確実になった〉、という理屈であれば、今回の清原氏と記者とのやりとりが無くたって、結論が出ているはずです。今回のやりとりを待たず、楽天が清原氏を獲得しないと表明した時点で、〈清原、オリックスへ〉と打てるはずですし、そのタイミングで打つべきでしょう。

このように、きょうの記事は何回読んでも、清原氏の発言と入団の決意がどう関係しているのかがわかりません。読者としては、適当にごまかされているような感じもしてきます。

ちなみに、読売新聞は〈(清原氏は)去就について20日に発表することを明らかにした〉、共同通信(ウェブ版)も〈20日に去就表明することを明らかにした〉と、ともに「20日に発表」をニュースのポイントとして報じています。

この2社の報じ方がよいというわけではありません。清原氏とのやりとりを単に伝えるより、朝日のようにプラスアルファの情報や分析があったほうが、記事としては優れているといえるでしょう。ただ、朝日の記事は内容が破たんしているのです。

もしかしたら、記事には書いていない会話があったのかもしれません。また、記事には書いていない背景データをもっているのかもしれません。それらを加味したうえで、〈入団が確実になった〉と結論付けたのかもしれません。でも、だったら、客である読者に可能な範囲でその内容について報告すべきです。

今回のように、論理の飛躍や展開の無理がある記事を読まされると、読者としてバカにされているような気にもなります。新聞は、何らかのことについて〈確実になった〉と書くからには、ていねいで、すんなり理解できる裏付けを示すべきです。
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by tmreij | 2005-12-19 13:13 | 本紙

「ひどすぎる」議員をちゃんと追及すべきだ

きょう(2005年12月17日)の朝日新聞朝刊は、〈自民の質問ひどすぎた 証人喚問 武部幹事長謝る〉という見出しの記事を社会面に掲載。自民党の武部幹事長がラジオ番組で、耐震データ偽造問題をめぐって衆院が証人喚問した際の、同党議員の質問が悪質だったと認めたと伝えています。

記事は、〈(証人喚問では)自民からは渡辺具能衆院議員らが質問に立った。番組でタレントのテリー伊藤さんが、「40分間の持ち時間で33分、自分だけでしゃべっている」と指摘〉したと書いています。

伊藤氏の言うことが正しいのであれば、確かにひどすぎます。渡辺氏らは、議員としての自分をアピールできる格好のチャンスだと意気込み、何とか少しでも多くテレビに映ることを狙ったのかもしれません。そうであれば、自分の選挙のことしか考えていないエゴ丸だしの発想であって、国民の代表として偽装問題の真相に迫るという本来あるべき目的は、完全に後回し(もしくはまったく無し)なわけです。

〈党にも「質問が長すぎる」「証人に話をさせろ」といった苦情が数百件寄せられていた〉ということですが、さもありなんでしょう。武部氏も〈「喚問なんだから、相手から引き出さなくちゃいけない」と追及の甘さを認めた〉とのことですが、当然でしょう。

このように、自民党幹事長が同党議員の出来の悪さを率直に認め、国民に謝ったというのはわかりましたが、質問(といより演説?)をした当の議員は一体なにを考えていたのでしょうか。今回の記事からは、その最も気になる部分がわかりません。名前が挙がっている渡辺氏を含め、自民党議員らのコメントがまったく出ていないのです。

今回の武部発言については、読売もきょうの朝刊政治面に、〈武部幹事長「証人喚問は追及不足」〉という見出しの短信記事を載せています。こちらは朝日よりもひどく、武部氏の〈「問題を解明するために相手から聞き出さないといけなかった。本当に申し訳ない」〉という発言を紹介するだけで、批判の対象となっている自民党議員の氏名さえ書いていません。

これでは読者は、いったいどの議員がけしからんのかさえわかりません。読売としては、そんなことは少し前の新聞を読めばわかることだ、という考えなのでしょうが、わざわざ過去の新聞で調べたり、日々の動きをずっと頭に入れたりしている読者はそう多くはないでしょうから、こうした大事な情報(国会議員としての責務をはき違えているのは誰か)については、親切ていねいに書くべきです。

一方、毎日はウェブ版の記事〈耐震偽造:証人喚問「追及が甘い」 自民党に抗議殺到〉(最終更新時間 12月16日 9時01分、紙面では未確認)で、〈渡辺氏は40分の持ち時間中、30分以上を自分の発言に費やした〉としたうえで、〈「姉歯氏にもっとしゃべらせるべきだ」「なぜこの議員を質問者に選んだのか」〉などの抗議が自民党に殺到したと伝えています。

この記事には、〈渡辺氏は抗議に対して「証人喚問は事件を解明し、対応策に反映させるためのもの。面白おかしく劇場風になるべきでない」とコメントした〉とあります。ちゃんと当事者の話を伝えている点で、きょうの朝日や読売より優れた記事だといえるでしょう。質問に立った自民党議員4人全員の氏名を書いているところも、評価できます。

ただ、上記の渡辺氏のこのコメントは、ああそうかと読者がすんなり理解できるような内容だとはとても思えません。ますます、一体なにを考えているのか、という疑問が高まるような中身です。あなた何を言っているの? ともっと突っ込んで質問し、本格的にとんでもない(であろう)議員だということを、明確にしてほしいと思います。
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by tmreij | 2005-12-17 22:52 | 本紙