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新聞の「業界エゴ」臭が強くないか

きょう(2006年2月20日)の読売新聞朝刊は、新聞の「特殊指定」の継続を訴える記事を、1面、2面、社説、解説面で大展開しています。

主張の中身をみると、〈活字文化の維持・振興に欠かせぬ〉(社説見出し)、〈憲法が定めた「知る権利」が損なわれることにもなりかねない〉(解説面記事)など、美しい理屈が出てきます。それはそれでいいと思うのですが、全体を通して読むと、なんとなく不誠実な感じがしてきます。

新聞の特殊指定というのは、地域や読者によって新聞の値段をばらばらにすることを禁じる制度です。

新聞社側は、もしこの特殊指定がなくなれば、販売店が割引競争に走るか、逆に〈人口が少なく配達コストがかかる山間部、過疎地などでは、購読料金の値上げや配達打ち切りといった動きが出てくるのは必至だ〉(解説面記事)と訴えています。そして、〈販売店を過当な競争に巻き込んだ結果、サービス向上どころか、国民、読者の利益を損ねてしまっては本末転倒だ〉(同)と憂えています。

ところで、読売はなぜきょう、この問題を大きく取り上げたのでしょうか。ひとつには、公正取引委員会が最近、特殊指定の見直し作業を始めたということがあるでしょう。ただ、より大きな理由として、この問題をテーマにした世論調査を読売が1週間ほど前に実施し、同社の主張に沿う結果が出たということがあると思います。

紙面によると、世論調査の質問は6つ。うちひとつでは、特殊指定について説明したうえで、〈あなたは、この公正取引委員会の(特殊指定)制度を、続ける方がよいと思いますか、そうは思いませんか〉と質問しています。回答は、〈続ける方がよい 69.0%〉〈どちらかといえば続ける方がよい 14.9%〉〈どちらかといえばそうは思わない 5.7%〉〈そうは思わない 4.9%〉〈答えない 5.5%〉となっています。

さらに別の質問には、〈新聞にとって、あなたがとくに重要だと思うものを、次の中から、1つだけあげて下さい〉というのがあり、答えは、〈記事の内容の良さ 81.9%〉〈読者へのサービスの良さ 8.9%〉〈値段の安さ 6.2%〉〈その他 0.3%〉〈答えない 2.7%〉となっています。

こうした結果をもって読売は、ほらほら、多くの国民は特殊指定を続けたほうがいいと思っているし、値段の安さはそんなに大事なことだとは思っていないんだから、指定をやめようなどという考えは改めなさい、と主張しているわけです。

でも、これってなんか、すっきりとはつじつまが合っていないような気がします。

上記のとおり、新聞社が特殊指定の撤廃に反対する大きな理由は、撤廃すれば必ず、販売店で安売り競争が起こると予測しているからです。しかし、〈多くの国民は、新聞に対して価格やサービス面での競争よりも、紙面の内容での競争を求めているようだ〉(1面)と書いているとおり、今回の世論調査では、「値段の安さ」は多くの人にとって優先事項ではないとの結果が出ています。ということは、価格の低さよりも内容の良さで新聞は選ばれるはずですから、仮に安売り競争が起こったとしても、新聞の売れ行きには大きな影響は出ないでしょうし、「知る権利」のダメージも少ないということにならないでしょうか。

なんだかヘン、と思うのは、それだけではありません。次の、解説面記事の記述もです。

〈(この冬、4メートルを超える記録的積雪に見舞われた新潟県津南町)では、家が散在しているため、宅配にはコストがかかる。「もし、定価が守られなくなったら?」。そんな問いかけに、センター所長の津端茂雄さん(65)は「戸別配達をやっていけなくなりますよ」と、即座に答えた〉

新聞の定価が守られなくなることと、戸別配達が続かなくなることに、かなりの飛躍がないでしょうか。定価が守られなくなると、どういうことが起こり、どういう事情から戸別配達が無くなるのか、ていねいに説明すべきところですが、一気に読者に「戸別配達はムリ」という印象を植えつけようとしています。こんなことをするのは、具体的には言いづらいことがあるか、論理的には説明できないからではないか、という気がしてきます。

今回の特殊指定については勉強不足ですので、ここで何らかの意見を表明することはしません。ただ、今回のようなすっきり理屈が通っていない記事を読んでいると、自分たちに都合のいいデータや読者の耳触りがいい論理だけを強調し、何とかして既得権益を守ろうとする「業界エゴ」のような印象を受けます。

新聞は、特殊指定を継続せよと主張するのであれば、値段がまちまちになったらなぜだめなのか、特殊指定が無くても新聞社側の努力で戸別配達を続けられないのか、国民にメリットはないのか、ついでに現在の朝日・毎日・読売の値段がまったく同じなのはどうしてなのか、といったことについて、読者に誠実に、矛盾なく説明すべきだと思います。
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by tmreij | 2006-02-21 00:36 | 本紙

「節度ある取材」に触れないのはなぜ?

滋賀県の幼稚園児2人が、別の園児の母親に殺害されました。きょう(2006年2月18日)の全国紙朝刊は、きのうの夕刊の第一報に続き、この事件に関する記事を1面や社会面などで大きく掲載しています。

ここのところ、小さな子どもが被害者となる残忍な事件が続き、そのたびに新聞は、派手な見出しの記事を載せています。

最近の傾向として、そうした記事のなかで、「遺族の心情を思い、節度ある取材をする」と表明することが増えています。広島と栃木の小1女児殺害事件(それぞれ昨年11月と同12月)や京都の小6女児殺害事件(同12月)でも、主要紙はほぼ全紙、遺族側の「そっとしておいて」という思いと、地元報道各社による「申し合わせ」について伝えています。

では今回はどうかというと、きょうの朝刊まででは、全国紙3紙で「節度ある取材」について報じている新聞はありません。

遺族が気丈にも、できるだけ取材に協力しようという考えなのかとも思いましたが、そうではないようです。きょうの産経新聞と東京新聞はともに、〈取材自粛を要請〉という見出しのベタ記事を掲載。殺された男児の父親が、遺族・親族や近所、弔問客らへの取材の自粛を求める張り紙を、玄関ドアにしたことを伝えています。

産経はさらに別のベタ記事で、〈大津市に拠点を置く報道各社責任者でつくる「十社会」は十七日、「被害者家族をはじめとする関係者の心情やプライバシーなどに配慮し節度を持って取材・報道に当たる」と申し合わせた〉と報じています。

なぜ全国紙は、これらのことを報じないのでしょうか。

こう書くと、全国紙を非難しているような感じになりますが、必ずしもそうではありません。遺族がショックで取材どころではないのは当たり前でしょうし、報道機関が遺族らの思いを考慮して節度ある取材を心がけるのも当然でしょう。どちらもごく普通のことですから、本来はあえて新聞が記事として取り上げることではないはずです。メディアが当たり前のことを当たり前と考えず、遺族らからの抗議の声を受けて、自らに言い聞かせるような記事を載せるほうが、異常なのです。

その意味では、今回の事件報道で「節度ある取材」の記事が全国紙に出ていないのは、本来あるべき状態になったと考えることができるのかもしれません。実際の取材の現場は見ていないので正確にはわかりませんが、これまでの紙面をみる限りは、近所での取材はややうるさいと受け止められるものもあったでしょうが、新聞はおおむね、冷静なふるまいをしているように思います。

ただ、遺族の意向や「節度ある取材」について全国紙が書いていないのは、できるだけ取材活動を制限したくないと考えているからという可能性もあります。ここ何回かの経験から、「節度ある取材」宣言などしていては、読者の欲求を満たす突っ込んだ記事は書けない、と判断したとも考えられます。

いったいどちらなのかは、各紙の今後の記事や、他のメディアなどから聞こえてくる地元住民の声などによって、明らかになることと思います。
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by tmreij | 2006-02-18 20:48 | 本紙

「一夫多妻」報道に、新聞の未熟さがみえる

複数の女性たちと集団生活を送っていた東京都東大和市の男性が、脅迫の罪で起訴されました。きょう(2006年2月16日)の読売新聞朝刊は、社会面ベタ記事でこのことを伝えています。

この「事件」とそれに関する報道については、1月下旬にマスコミが騒ぎ出した当初からずっと、心が落ち着きませんでした。なんだか、法治国家らしくない乱暴なことが行われ、それを報道機関がサポートしている感じがするのです。

ご存知の方も多いと思いますが、起訴というのは検察官が「こいつは犯罪人だ」と確信したときにします。警察が容疑者を逮捕し、検察が取り調べを引き継いでも、法を犯した疑いが無かったり、不十分だったりした場合には起訴しません。原則として、裁判で有罪にできると判断したときだけ裁判所に起訴状を出し、裁判というプロセスをスタートさせるわけです。

では、今回の事件では、検察官はどんな確信をもっているのでしょうか。読売は、以下のように報じています。

〈起訴状などによると、○○容疑者は昨年10月20日夕、集団生活をしている民家を訪れた女性(21)に生活に加わるよう勧誘し、「ここを出ていったら命の保証はしない。事故に遭ったり病気になったり、殺されたりする」と言って脅した〉

「殺す」ではなく「殺されたりする」というのが、なんとも迫力に欠けますが、それでもこの言葉を脅しと受け止めようと思えば受け止められるかとは思います。ただ、「おめー、ぶっ殺すぞ」「あんた、ただじゃおかないからね!」といった、もうちょっとスゴミのある言葉が恐らく全国津々浦々で日常的に飛び交っているであろうことを考えると、〈「事故に遭ったり病気になったり、殺されたりする」〉という言葉で起訴に持ち込むのは、ちょっと苦しいのではないかという気がしてきます。

そんななのに、検察ががんばるのはなぜでしょうか。それはやはり、「一夫多妻」(読売も毎日も見出しにこの言葉を使っています)のような暮らしを送る男をだまって野放しにしておくわけにはいかない、という使命感のようなものがあるからではないかと思います。

ただ、その検察の思いが正しいものかというと、そうは思いません。率直に言って、すごく間違っているように思います。

日本の法律は、同時に複数人と結婚すること(重婚)は禁じています。しかし今回の男性は、〈これまでに10人の女性と延べ12回の結婚をしていた。婚姻期間がわずか9日間しかない女性がいたほか、離婚届を出したその日に、別の女性との婚姻届を出すということを繰り返していた〉(1月26日付読売=ウェブ版。以下も)ということはあったようですが、重婚していたという話はありません。結婚という手続きに関していえば、法律を破ってはいないのです。

手続きは破っていなくても、結婚という制度や概念を破壊している、という指摘があるかもしれません。しかし、結婚というものをどう考え、どんな暮らし方をするかというのは、まったく人それぞれのはずです。結婚や家庭、家族というのはこうでなければならない、こうあるべきだ、という理想や観念は、自分で大切にする分には大変結構ですが、他人に押しつけるべきものではないと思います。男1人、女10人で住もうが、女1人、男20人で暮らそうが、男だけで生きようが、女ばかりで過ごそうが、法律に違反せず、当事者が合意している限り、どんな生き方も最大限尊重されるべきです。

起訴された男性は〈「女性が多く集まれば収入が増え、自分の生活も安定する。欲も満たすことができる」〉(2月9日付読売同)とも供述しているとのことですが、これさえも、個人的にはあまり好きな考え方ではありませんが、ライフスタイルのひとつとして認められるべきです。

このように、今回の逮捕・起訴は国家機関によるかなり乱暴な行為だと思うのですが、警察・検察がもともと乱暴な組織であることを考えると、それほど驚きはありません。それよりも、本来なら今回の逮捕・起訴が妥当かどうかを厳しくチェックすべき新聞が、捜査機関と一緒になって「あいつらけしからん」とやっているほうが、問題としてはずっと深刻です。

例えば、読売(ウェブ版)は、〈多数の女性と不自然な集団生活をしていた○○容疑者〉〈不自然な結婚・離婚が始まったのは……〉(1月26日)、〈不自然な集団生活を断った20歳の女性が脅かされた事件で……〉(同27日)と「不自然」を連発。「不法」と違って「不自然」は本来、非難される性質のものではありませんが、記事は明らかに男性たちに批判的です。また、〈近所の無職男性(53)は「いつまで集団で住み続けるつもりだろうか」と不安そうだった〉(2月15日)などと、不安を報じるふりをして不安を煽ってもいます。

他の新聞も、非難の調子に強弱の差こそあれ、男性たちを奇妙な存在として報じることで異端を排除しようといった意識がうかがえます。

読売はまた、〈専門家は、男と同居している女性たちはマインドコントロールされている可能性があると指摘している〉(1月26日)と書くなど、率先して男性を悪者にしようとする動きさえ見せています。ただ、この「マインドコントロール」はかなり難しい問題で、仏教やキリスト教など一般的に受け入れられている宗教だって一種のマインドコントロールでしょうし、成人男女1人ずつで家庭をもつべきだという認識だってマインドコントロールと言えるでしょう。問題とすべきはマインドコントロールではなく、それによって引き起こされる違法行為のはずですが、読売はそこの区別がきちんとできていないように思えます。

日本は、自由を尊重し法によって治める国のはずです。そして新聞は、日本がきちんとそういう状態であり続けるよう、国家機関の一挙一動に目を光らせ、絶えず批判を繰り出す存在であるはずです。

それが今回は、捜査機関にすっかり同調し、必要以上に自由を制限する国家権力の一部になってしまっているように感じます。新聞は、自らの役割について考え直したほうがよいと思います。
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by tmreij | 2006-02-17 01:11 | 本紙

「無理心中」を安易に想定していないか

中越地震で被災し、親族宅に身を寄せていた高齢者夫婦が、遺体で発見されました。きょう(2006年2月15日)の毎日新聞、読売新聞の朝刊は、ともに社会面でこのニュースを報じています。

この種の出来事で新聞がよく使う言葉に、「無理心中」があります。今回も2紙とも、この言葉を使用。読売は見出しでも、〈無理心中か〉と書いています。

読むほうにとっても、何気なく読み過ごしてしまうような言葉ですが、本当はかなり注意して取り扱われるべき言葉のように思います。

無理心中を広辞苑(第5版)で引くと、「合意でなく、心中を欲しない相手を殺して、自分も共に死ぬこと」とあります。

今回のケースでは、夫(88)が室内で首をつって死んでおり、そのすぐそばのベッドの中で、妻(81)が右腕に刃物の傷をつけた状態で亡くなっていたとのことです。また、〈「迷惑をかけて申し訳なかった」〉(毎日)、〈「お世話になった。申し訳ない」〉(読売)などと書かれた遺書と、〈血の付いた刃物〉(読売)が見つかっているようです。

これらの状況から、〈(新潟)県警長岡署は、夫妻が無理心中をしたとみて調べている〉(毎日)、〈同署は無理心中とみて調べている〉(読売)と、両紙は伝えています。

妻が〈約4年前から寝たきり〉(毎日)だったことも考え合わせると、無理心中だった可能性はあると思います。ただ、上記のようなことが無理心中の決め手となるかというと、そうはならないと思います。一方、紙面をみる限り、無理心中ではない可能性――妻も命を絶つことを望み、夫に伝えていた――も、そう低くはないようにも思います。

このような状況で、新聞が「無理心中」という言葉を使うことは、フェアだといえるのでしょうか。警察の見立てだから仕方ないじゃん、という意見はあるかと思いますが、じゃあその見立てについて、新聞は根拠をしっかりと問うたのでしょうか。もし問うたうえで、納得して「無理心中」と書いたのであれば、読者に対しても当然、その根拠を説明すべきです。

「無理心中」という短い言葉には、表現は適切ではないかもしれませんが、ドラマチックな響きがあり、読者の情感に訴える強いインパクトもあるように思います。それだけに、自殺体とその親族の死体が一緒に見つかったときには、新聞はつい安易に頼ってしまってはいないでしょうか。

無理やり命を奪ったという点で、無理心中が普通の心中や嘱託殺人より不名誉であろうことを考えると、合理的な根拠がないのであれば、新聞はあえて無理心中について触れる必要はないのではないでしょうか。もし強力な根拠があるのであれば、それをきちんと伝えたうえで、無理心中の可能性について語るべきだと思います。
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by tmreij | 2006-02-16 00:35 | 本紙

NYタイムズは読売について、もっと違うことも書いている

きょう(2006年2月14日)の読売新聞朝刊は、同紙の渡辺恒雄主筆(読売新聞グループ本社会長)が米紙ニューヨーク・タイムズ(11日付)で紹介されたと、第3社会面で報じています。

〈NYタイムズ紙 本社主筆を紹介〉というベタ見出しの小さな記事ですが、これがなんとも、報道機関らしくない内容になっています。ひとことで言うと、「いいとこどり」なのです。

記事中、NYタイムズの報道内容について触れているのは、以下の2カ所です。

〈渡辺主筆が、太平洋戦争に突き進んだ日本の指導者らの責任を日本が自ら検証する必要性を唱えていることや、小泉首相の靖国神社参拝を批判していることを紹介。その背景には、戦争を知らない世代の中で高まるナショナリズムやアジアの近隣諸国との関係悪化に対する懸念があるとの見方を示した〉

〈読売新聞が昨年夏から「戦争責任」を検証する連載記事の掲載を始めたことや、靖国神社に代わる無宗教の国立追悼施設の建立を社説で訴えたことも紹介した〉

これを読むと、NYタイムズは読売のことを、反国家主義的でハト派な新聞だと誤解して報じたのではないかと、心配になってきます。

そこで、NYタイムズの記事をみてみると、なんのことはありません。ちゃんと、読売のことを理解しているであろうことを示す、次のような記述が出ています。

〈渡辺氏は自らの新聞でこつこつと、ナショナリズムが高まる土壌を作り上げてきた〉〈小泉首相の靖国神社参拝を非難する社説を昨年6月に掲載したのは、読売にとっては180度方向転換をしたようなものだった〉〈読売は、いまの日本でわき起こっている勇ましいナショナリズムを盛り上げる大きな力となった〉(このブログの筆者訳。NYタイムズの記事に関しては以下も同じ)

どうも、読売はこうした記述については、完全に無視しているようなのです。

もし、今回読売が掲載したのが純粋な「広告」だったら、NYタイムズに何が書いてあろうと、自社のイメージアップに役立つであろう部分だけをつまみ出して読者に伝えても、まあいいでしょう。新聞社としてはかなりカッコ悪い行為だとは思いますが、権威ある米紙に取り上げられたことが嬉しく、それを何とか利用しようとがんばってるんだな、かわいいな、とほほ笑ましい気持ちで見守ることもできます。

しかしきょうのように、広告ではなく「記事」という形態でNYタイムズの記事を紹介しているとなると、話は別です。一人前の報道機関であれば、自社にとって好ましい記述だけでなく、好ましくない内容もちゃんと報じて当然のはずです。もし自分たちには納得いかない評価をされていたとしても、そうした記述があることも読者に知らせ、そのうえで反論なり解説なりすべきです。

ところで、今回のNYタイムズは、以下のような記述や渡辺氏の言葉(約2時間にわたってインタビューをしたそうです)も、記事に盛り込んでいます。

・小泉首相について——〈「小泉という人物は、歴史も哲学も知らず、勉強もせず、まったく教養がない。だから『靖国に参拝して何が悪いのか』『靖国を批判するのは中国と朝鮮だけだ』といったばかなことを言う。彼の無知が原因なのだ」〉

・神風特攻隊について——〈「彼らが勇気と喜びに満ちて『天皇陛下万歳!』と声を張り上げながら飛び立ったなんて大うそだ」と渡辺氏は怒りを込めて話した。「彼らは屠殺場のヒツジだった。みんなうなだれ、よろよろしていた。立ち上がれずに、整備兵たちに飛行機に押し込まれた人もいたのだ」〉

・自らについて——〈渡辺氏は自らの(政界などへの)影響力が弱くなっているのではないかと気にしている〉〈「今年で80歳になる」と渡辺氏は言った。「残された時間はあまりない」〉

小泉首相と特攻隊についての発言は非常に参考になると思いますが、自らについては意識過剰なのが気になります。自意識の極めつけは、記事の最後に使われているこの言葉です。

〈「私は、日本のすべてを変えられると思っている」〉

こんなことを言う人をトップに掲げている新聞にあまり期待をしてはいけないのかもしれませんが、広告ではなく記事を書くときには、もう少し客観性とバランスに気を配り、読者に物事(それが自社への批判であっても)を正確に伝える努力をしてほしいと思います。
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by tmreij | 2006-02-14 23:21 | 本紙

沖縄返還「密約」の事実を奪い返せ

沖縄返還の際に、米国が出すべき補償費用を日本が代わりに負担するという「密約」が日米間であったと、当時の外務省担当者が明かしました。きょう(2006年2月10日)の毎日新聞朝刊は、1面と総合面でこのニュースを大きく報道。元担当者の暴露を受けてもなおも密約を認めようとしない日本政府を、厳しい口調で批判しています。

この政府批判を全面的に支持するとともに、他の新聞には、これが報道の根源にかかわる問題であることをよく認識し、しっかりと政府を追及することを求めたいと思います。

この密約については当時、毎日新聞記者がスクープしました。ところが国は、機密情報を漏らしたとして、記者を国家公務員法違反(記者の情報源が外務省職員だったため)の疑いで逮捕。記者は、事実を突き止めることは犯罪ではないと主張し、最高裁まで争いましたが、結局有罪が確定しました。肝心の密約があったかどうかは、裁判では明らかにされませんでした。

こうしたいきさつもあってか、この日の毎日は、激しい言葉を政府に浴びせています。すでに、〈00年5月と02年6月に、肩代わりを「日米間の密約」と明記した米政府の文書が米国立公文書館で見つかった〉うえに、今回の告白も出てきたにもかかわらず、〈安倍晋三官房長官は9日の記者会見で「全くそうした密約はなかったと報告を受けている」と述べ、政府として改めて密約を否定した〉ことに対し、〈明白な証拠がで出ているにもかかわらず、密約の存在を認めない日本政府の姿勢は不誠実極まりない〉と断じています。

まったくそのとおりだと思います。

今回の元外務省担当者の暴露は、毎日のスクープかと思いきや、朝日もきょうの朝刊総合面で報じています。ただ、毎日のように、政府の反応を非難する言葉はありません。一方、読売は、きょうの紙面には記事を掲載できていません。(2006年2月10日20時7分  読売新聞)と打刻してあるウェブ版の記事をみると、〈麻生外相は10日の記者会見で、「(2000年当時の)河野外相に吉野元局長が『密約はない』と答えたことで、この話は終わっている。外務省の態度に変化はない」と述べた〉と書いていますが、やはり批判や論評はみられません。(この記事はあす11日の朝刊に掲載されると思いますが、内容は変わるかもしれません)

えらく淡泊じゃないでしょうか。

もう30年以上も前のことですが、新聞記者が事実に迫り、それを報じたことが、罪にされたのです。そのうえ、政府はこれまでずっと密約なんてなかったという見解を貫いてきたため、超一級のスクープを放ったはずの記者は、とてつもない不名誉を被ってきたのです。

このことに怒らずして、新聞記者でしょうか。今回の告白は、記者の不名誉をぬぐい去る絶好の機会ですし、なにより、一つしかない「事実」をめぐる争いに決着をつけるチャンスです。政府は、今度は不名誉が自分たちのほうに降りかかってくることを恐れて、密約を認めず、言い逃れをしてなんとか切り抜けようとするでしょう。新聞は、それを許してはならないと思います。
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by tmreij | 2006-02-10 23:30 | 本紙

なぜイラン人の裁判に、初適用なのか

東京地裁における、とある重罪事件の裁判で、あっと驚くほど素早い判決が出ました。きょう(2006年2月9日)の全国紙朝刊は、いずれも社会面でこの出来事を取り上げています。

記事を読むと、初公判から13日目に判決を出すという、類のないほど短期間な審理だったことはよくわかります。しかし、おそらく多くの読者が頭に浮かべるであろう疑問に、どの新聞も答えていないのが気になります。

今回の裁判は、通常のものとは異なり、〈迅速で分かりやすい裁判のため、初公判前に証拠や争点を絞り込む〉(毎日)という作業がありました。「公判前整理手続き」と呼ばれるもので、東京地裁でこの手続きを適用したのは、これが初めてだったようです。

裁判をスピーディーに終了できるというメリットがある反面、特に被告にとってはマイナスとなる点があるようです。今回の裁判について被告弁護人は、〈「時間が足りない」〉(読売)、〈「我々の主張をもう少し時間をかけて検討してほしかった」〉(朝日)、〈連日開廷では時間的に検討が十分出来ず、非億のためになるかは疑問だ〉(毎日)などと話しています。

そうしたデメリットも考慮してのことでしょう、この「公判前整理手続き」は昨年11月に導入されたのですが、それ以降の裁判すべてに適用されているわけではありません。

では、今回のケースは他のと何か違いがあるのかというと、一つ大きな特徴があります。被告がイラン人で、この被告に刃物で切りつけられたとされる被害者もイラン人という「外国人裁判」なのです。

東京地裁に数多くある刑事裁判のなかで、なぜこの裁判が選ばれたのか。読者としては、非常に気になるところではないでしょうか。もしや、ガイジンは日本人に比べ裁判の進行についてとやかく言う確率は低いだろうと判断し、新しい手続きの初適用にはちょうどいいと考えたのではないかとも想像できます。もしかしたら、そんな意図はまったくなく、機械的に選出しただけなのかもしれません。ただ、3紙が3紙とも、理由についてはまったく何も書いていないとなると、何かウラがあるんじゃないかと勘ぐりたくもなります。

なぜ東京地裁での初適用がこの特徴ある事件だったのかということは、記者だって当然疑問に思ったでしょうし、その点について尋ねてもいるはずです。記者は担当者から説明を聞いて納得したのかもしれませんが、読者はちっともわかりません。自分が疑問に思ったことは読者も疑問に思うだろうと考え、仕入れた情報をちゃんと読者にも伝えるべきです。

これはあまり考えたくはありませんが、イラン人の事件が選ばれたことに対して、単に関心をまったく寄せなかった結果、今回のような記事になったのかもしれません。もしそうだとしたら、その記者は、読者に対して劣悪なサービスしか提供できていないことを自覚すべきだと思います。
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by tmreij | 2006-02-09 23:51 | 本紙

こんな「妊娠報道」をずっと続ける気か

紀子さん(日本人だけど名字なし。旧姓川嶋)が妊娠したようです。きょう(2006年2月8日)の全国紙各紙の朝刊は、1面トップでこのことをでかでかと報告。社会面や総合面などにも関連記事を詰め込んでいます。

朝日と毎日は、社説でも妊娠を取り上げています。朝日は〈出産のご無事を祈りながら、静かに見守りたいと思う〉と抱負を表明。毎日も〈何よりも、紀子さまがすこやかに過ごされるよう、静かに見守りたい〉と説いています。また、読売は社説ではありませんが、社会面記事で紀子さんの高校時代の恩師を登場させ、〈「周囲がとやかく言うのではなく、静かに見守ってほしい」と訴えた〉と書いています。

各社そろって、「静かに見守る」という言葉が好きなのはわかりました。ただ、これだけ大々的に妊娠について報じ、前日には号外まで出しておきながら、「静かに見守る」もなにもあったもんじゃないような気がします。

べつに、「静かに見守る」のがよくないと言っているわけではありません。でも、本当にそうする勇気も落ち着きもないのに、口先でだけそんなこと言うのは、何となくうそつきっぽい感じがするのです。

新聞が、母体やその他の家族への気づかいを表明すること自体は、間違ってないと思います。しかし、一方で人間的な配慮を口にしながら、他方では「ついに男か、はたまた女か」とすぐやり出すのは、矛盾もいいところです。きょうの全国紙は3紙が3紙とも、1面記事のリード部分で、〈男児が誕生すれば〉(朝日)、〈男子が生まれれば〉(毎日)、〈男子誕生の場合は〉(読売)と、生まれてくる子の性別に強烈な興味を示しているのです。

読売名物の相談コーナー〈人生案内〉(くらし面)には、「夫の親や周囲からとにかく男の子を期待され、プレッシャーに参りそうです」といった類の相談がしょっちゅう出ていますが、そういったものを読むまでもなく、〈男児が誕生すれば〉なんて新聞に書かれれば、紀子さんの身心に大きな影響を与えることは明らかではないでしょうか。(それを覚悟で子作りに臨んだとしても)

今回のケースでいえば、雅子さん(やっぱり名字なし。旧姓小和田)に与える精神的ショックだって大きいでしょう。いよいよ待ちに待った男子か、もしそうなら男系天皇を守ることができるし、皇室典範の改正も必要なさそう、などと紙上で盛り上げれば盛り上げるほど、男の子を生んでいない雅子さんにみじめな思いをさせるのではないでしょうか。結局、私は男子製造機なの? といった怒りや悩みをしたため、読売の〈人生案内〉に送りたくなったとしても、無理ありません。(送らないでしょうが)

こんな風に、新聞がやさしい言葉を吐きながら、同時に個人の身心を圧迫しズタズタにするといった矛盾は、生身の人間を国家の象徴にするなどという制度がある限り、いつまでも続くと思います。だいたい、新聞が皇族の妊娠を「静かに見守る」なんてのはムリです。新聞の役割のひとつとして、読者の関心に応えることがあり、天皇の「お世継ぎ」は、いつの時代もある程度の人々の関心事だからです。芸能人やアナウンサーの妊娠・出産だって記事にしている時代に、公人中の公人の妊娠について何も報じないなんてできないでしょう。第2社会面の短信程度で報じるといったことも、読者離れが怖くてできないと思います。

皇族妊娠報道の矛盾を解消するには、問題の根源に向き合うしかないと思います。ある一家に苦しい思いを強いながら、国や国民の統合の象徴になってもらっているって、どうよ? という問いに、正面から取り組むしかないはずです。問題の本質は報道側にあるのではなく、皇室という制度にあると思います。

いま皇室典範を改正しないと、またいつか「女子女系天皇もあり?」という問題が起きると懸念する声があります。きっとそのとおりでしょう。同様に新聞も、「静かに見守りたい」などと言っているだけでは、またいつか必ず、皇族になっている人々の人格を踏みにじり、身心を傷つけるようなことをしてしまうと思います。

新聞は、皇室典範の改正といった小さな事柄に気を取られるのではなく、国の象徴とは何かという根本的な問題を見据えるべきです。
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by tmreij | 2006-02-09 03:01 | 本紙

こんなの「体罰」じゃなくて「暴行」でしょ

きょう(2006年2月7日)の毎日新聞朝刊の第2社会面には、〈けがのひざにも 体罰、顧問処分〉〈群馬の県立高〉というベタ記事が載っています。(おそらく東京本社発行のものだけだと思います)

全23行の地味な扱いではありますが、こうした事象をちゃんと問題視し、読者が多い社会面に記事を掲載したことは、評価できると思います。

しかし、記事をよく読むと、問題視の仕方が甘すぎるような気がしてきます。

記事によると、処分されたのは、前橋市内の県立高校の30代男性教員。この教員が、運動部の男子部員の〈顔を殴るなど計9回にわたって体罰をし〉、そのうちの1回では、〈けがをしていた生徒の右ひざをけって傷を悪化させ、生徒は入院して手術を受けた〉とのことです。群馬県教委の発表で発覚したようです。

この教員、ちょっとひどくないでしょうか。顔を殴ることだけでも十分問題だと思いますが、けがしているところをさらに痛めつけて入院させるといった、弱点を狙う野生動物みたいなことまでしていて、とても教員のふるまいとは思えません。

これを「体罰」と呼ぶのは、ごまかしのような気がします。れっきとした「暴行」であり、「傷害事件」だと思います。

そもそも「罰」というのは、悪い行いに対してこらしめることのはずです。それなのに、今回に記事によると、教員が「体罰」をしたのは、〈部員が指示どおりのプレーをしないことに腹を立て〉たのが理由です。そんなことでいちいち「体罰」をされていたら、生徒としては身が持ちませんし、だいたいにおいて、指示と違ったプレーをすることが悪い行為かというと、そんなことはありません。この点からも、「体罰」という言葉はふさわしくないと思います。

今回のような出来事は、県教委としては不名誉なことですし、大きな騒ぎにしたくないでしょう。そこで、「体罰」といったあいまいな言葉を持ち出し、大したことではないように見せかけようとしたり、あわよくば教育的な意味を印象づけようとしたりするわけです。しかし、新聞がそうした発表を無批判におうむ返しする必要はありません。仮に、被害者の生徒たちが被害届を出してなくて、刑事事件にはなっていないとしても、「暴行」という言葉を使ったって問題はないはずです。

子どもの教育は、痛い思いをさせるぐらいの厳しさがあってちょうどいいんだ。そんな認識をもっている人が、教員や保護者にも少なからずいるように感じることがあります。先生に叩かれたり蹴られたりしてけがしたぐらいでぎゃーぎゃー言うな、かえって感謝しろ、といった感覚です。まったくもって大人の身勝手な言い分としか思えませんが、きょうのような暴力教員に甘い記事を読むと、もしかしたら新聞も、同じような感覚を共有しているのではないかとの疑念が浮かんできます。

「体罰」がよい効果をもつときも、もしかしたらあるのかもしれません。しかしそんなのは、ごくごく限られた場合だと思います。少なくとも、〈部員が指示どおりのプレーをしない〉ときの指導方法として、「体罰」が適当などということはないはずです。

大人ならだれもが知っているように、学校ではふうつ、教員が圧倒的強者です。児童や生徒にとっては、たとえ暴行であっても、教員のすることにはだまって耐えるしかないことがほとんどです。教育の意味を込めた「体罰」とされるものは、往々にして実は単にカッとした末の行為だと思うのですが、それでも多くの子どもは、ただじっと我慢するしかありません。

新聞が、だれの立場で学校での「体罰」について取材し、記事を書くべきかは明らかです。記事によると、この教員は、〈減給1カ月の懲戒処分〉しか受けていません。そのことも含め、「教育者」たちの行為について、もっと批判的な視点が必要ではないかと思います。
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by tmreij | 2006-02-07 23:57 | 本紙

「親日家」チャップリンに甘えていないか

チャップリンは親日家だった。そのことを証明する写真が見つかったと、きょう(2006年2月6日)の読売新聞夕刊が社会面で大きく報じています。

実際にチャップリンが日本を好きだったのかどうかについては、ここでは問題にしません。ただ、きょうの読売の記事からは、チャップリンが親日家だったことを示す写真が見つかったと言うには相当無理があるように思いますので、そのことを指摘したいと思います。

記事は、〈喜劇王チャーリー・チャプリン(1889〜1977)の親日ぶりを示す大正、昭和初期の写真約150点と、著名人がチャプリンに送った手紙約500通が広島市内で見つかった〉という文章で始まります。

ふーん、どんな写真が見つかったんだろう、と思うところです。その疑問に答えるように、記事は続いて、〈昭和を代表する大女優・初代水谷八重子がハリウッドで対面した際の記念写真や、初来日時に撮影した当時の斎藤実首相とのツーショットなど貴重な資料ばかり〉と説明しています。

え? それがどうして親日家の証になるんだろう。なんか落ち着かない気分になってきました。「遠路はるばる日本からやってきた大女優と記念撮影する=親日」というのも、「来日時に首相と記念撮影する=親日」というのも、どっちもちょっと強引すぎるような気がします。

きっと、本文中にすんなりわかる説明があるはずだ。そう気を取り直して、先を読み進めます。すると、写真の内容に関する記述が2カ所出てきました。ひとつは、〈水谷の写真は、ハリウッドで映画「サーカス」(1928年)を撮影中のチャプリンを訪ねた際のもの〉というもの。相変わらず、日本の大女優との記念撮影について書いています。もうひとつは、〈東京でおでんを食べる写真もある〉という15文字です。

東京でおでんを食べたガイジンはみんな親日家だといえるのであれば、なるほどねと納得できるところです。でも、それもちょっと強引、というか、どんな認識の持ち主なのかと疑いたくなります。

記事には、こんな説明しか出てきませんが、最後に映画研究家の次のようなコメントが載っています。〈「チャプリンが日本人と一緒に写った写真はどれも飾らない明るさがあり、親日ぶりを改めて実証している」〉

新聞記事におけるウルトラCというのは、こんな展開のものをいうように思います。親日ぶりを示す写真が見つかったと、具体的なデータで言うのではなく、およそ関係なさそうな記述で文章をふくらませ、最後で個人の主観的なコメントひとつで結論づけてしまっているのです。

写真は150点も見つかったということですから、親日家だと判断できるようなものもあるのかもしれません。であれば、それについて書くべきです。今回の記事には2枚の白黒写真を付けていますが、1枚は大女優との記念撮影、もう1枚は「おでん写真」です(おでんを食べるチャップリンの表情は、神妙にも険しくも見えますが、おいしそうに感じているようには見えません)。もし親日ぶりを示す写真があるのなら、そちらを載せるべきでしょう。

この読売の記事は、「チャップリンのような人が親日家であってくれたらうれしい」という、多くの読者がもつであろう思いに大きく甘えているように感じます。だれに迷惑をかけるわけでなし、読者にとっては喜ばしい内容なんだから、データとしてちょっとぐらいズレてても気にする人なんかいないだろう、といった新聞側の感覚が透けてみえます。

新聞は、推論やこじつけの発表の場ではありません。今回のように〈親日家チャプリン〉と大見出しをつけるのであれば、それをきちんとデータで示すべきだと思います。

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繰り返しになりますが、チャップリンは親日家ではなかったと言っているわけではありません。「親日家だったことを示す写真が見つかった」という記事について、その中身の薄さを取り上げたものです。
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by tmreij | 2006-02-06 23:52 | 本紙