2006年 02月 05日 ( 1 )

言論に「出自による特別ルール」なんてあるのか

きょう(2006年2月4日)の朝日新聞は、〈皇室典範〉〈ここは冷静な議論を〉と題した社説を載せています。

朝日は2日前にも、〈寛仁さま〉〈発言はもう控えては〉という見出しの社説を掲載。皇位継承問題で意見を表明している寛仁氏(現天皇のいとこ)に、口をつむぐよう求めました。(参考:「皇族に「だまれ」はあんまりだ」)

きょうの社説は、〈この(2日の)社説に対して「言論機関が皇族の言論を封じるのか」という反論も寄せられた〉ことを紹介(ちなみに、このブログの筆者は寄せていません)。そのうえで、〈しかし、皇族だからこその言論のルールがある。それを指摘するのはむしろ言論機関の責務ではないか〉と主張しています。

そうでしょうか。

気になるのは、〈皇族だからこその言論のルールがある〉というくだりです。言論の自由は、すべての人間に等しく認められるべきもののはずです。それなのに、特定の家に生まれたという理由だけで、その人の口に無理やり特別なマスクをかぶせてよいものでしょうか。皇族は人間ではない、だから人間として生まれ持っている自由などない、と朝日は言いたいのでしょうか。

朝日が言う〈皇族だからこその言論のルール〉とは、皇族は政治的なことについては何も言うなということでしょう。しかしこれが、朝日の普遍的な主張かというと、そうでもないように思います。

例えば、故裕仁氏(昭和天皇)が1984年9月、韓国の全斗煥大統領(当時)を迎えた宮中晩餐会で「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾」と述べたとき、朝日は「ルール違反だ」「だまれ」と主張したでしょうか。明仁氏(現天皇)が90年5月、韓国の盧泰愚大統領(当時)歓迎の宮中晩餐会で「わが国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じ得ません」と発言したときはどうだったでしょうか。ともに、戦争責任と関係する高度に政治的な発言といえると思いますが、これらについては、朝日はどちらかというと好意的な受け止め方をしていたのではないでしょうか。

自らの歴史観や価値観に合う発言については問題視せず、自分たちの主張と対立する内容のときには、人間がもつ最も根源的な自由を否定してまでも発言を封じようとするのは、人間の素直な感情としてはわかります。しかし、言論の自由をどこよりも尊ぶはずの新聞がそんなことをし出すのは、やはりおかしいと思います。

上記参考文「皇族に『だまれ』はあんまりだ」で述べたとおり、問題なのは皇族による発言ではありません。皇族の発言をありがたがったり利用したりする人々の存在や、そういう人々を生み出し続けているメディアの姿勢だと思います。

〈言論機関の責務〉は、他者の言論に対してルールをつくることなどではなく、だれもが思ったことを自由に発言できる環境をつくることではないでしょうか。そのためには、どこに生まれたかなんかで発言に軽重の差をつけるような社会を変えることが、まず必要だと思います。
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by tmreij | 2006-02-05 00:21 | 本紙