新聞読んだ?
2006-09-29T02:27:09+09:00
tmreij
新聞って案外、突っ込みどころが多いんです。
Excite Blog
新聞は「権力監視」の役割を忘れたのか
http://inthepaper.exblog.jp/4226552/
2006-09-28T23:20:00+09:00
2006-09-29T02:27:09+09:00
2006-09-28T23:20:22+09:00
tmreij
本紙
辞職のきっかけは、知事の弟らによる談合疑惑です。公共工事の業者選びで、知事の親族が大きな影響力を発揮し、建設業者などもその力を頼って金を贈るなどしていたということですので、けしからんことなのは間違いありません。ですから、新聞が「けしからん」と声を上げること自体は悪いとは思いませんし、新聞にはそういう役割もあると思います。
ただ、非難記事のなかには、読んでいて「そんなこと言うけどさー」と口走りたくなるものがあります。きょうの読売の3面の署名コラムは、そんな感想を抱かせる典型です。
〈周囲の注意 無視した知事〉という見出しと、怒った顔のマークがついたそのコラムは、次の文章で始まります。
〈事件の背景には、福島県政史上初の5選という「多選の弊害」がある。逮捕された実弟や支援者が「建設業界と癒着している」といううわさは、関係者の間で、半ば”公然の秘密”だった。しかし、周囲から注意されても知事は「弟を信じている」「支援者は県政に近寄らせていない」と擁護し続けた〉
コラムはこの後、知事は県民の批判に耳を貸さず、事の重大さをわかっていないようだった、と続きます。多選によって感覚がまひし、周りがみえなくなっていたという指摘は、恐らくそのとおりなのだと思います。
引っかかるのは、弟らと業界の癒着が〈関係者の間で、半ば”公然の秘密”だった〉という部分です。関係者たちが癒着について半ばおおっぴらに話しているのを記者が知っていたのであれば、新聞はなぜそれを追及しなかったのでしょうか。いつから公然の秘密になっていたのか書いてありませんが、知事が5選されていることを考えると、癒着のうわさは何年も前から出回っていた可能性もあります。もしそうであれば、新聞はかなりの長期に渡ってずっと、公然の秘密の談合に対し、無策だったことになります。
検察などと違って、新聞には捜査権はないので、独自に犯罪を明らかにすることは困難です。だから新聞はどうしようもなかった、と考えることもできるでしょう。
しかし新聞は、公器をうたい、「権力のチェック」を大きな役割の一つとして掲げています。県庁に賃料なしで仕事場を構えているのも、県議会に専用席があるのも、知事と定期的に会見できるのも、すべて県民たちが新聞記者のことを「権力の見張り役」だと認めているからのはずです(少なくとも理屈のうえでは)。犯罪構造の全容究明は難しいとしても、癒着が「公然の秘密」だったのであれば、談合の事例を一つでも二つでも表に出すことは、新聞にも可能だったのではないかと思います。
そう考えると、公然の秘密だった知事側と建設業界の癒着について、検察の捜査が入るまで新聞が何もできなかったのは、読者や納税者たちに対して十分なサービスができなかったということです。新聞はこのことを恥じるべきです。
朝日の社説〈事件は多選の弊害だ〉は、〈知事を監視する立場にある議会の責任は重い。長年の不正を見逃していたことを見れば、その役割を果たしていなかったといわざるをえない〉と県議会に矛先を向けています。この批判も、正しいことを言っているとは思うのですが、やっぱり「そんなこと言うけどさー」という気持ちになります。
読売や朝日を含め、多くの新聞に欠けているのは、自分たちは役割をしっかりと果たせなかったのではないかという自省と、その点に関しての読者への説明です。知事やその親族、業界らの悪事については、ひるまず厳しい非難を浴びせるべきですが、それと同時に、自分たちにも厳しい検証の目を向けるべきです。
自らのことは平然と棚に上げるという今回のような報道を続けていれば、新聞に対する読者の信頼は失われていくばかりだと思います。]]>
「昭和天皇の不快感」を、靖国参拝反対に使うべきではない
http://inthepaper.exblog.jp/3877832/
2006-07-26T00:32:00+09:00
2006-07-26T00:32:54+09:00
2006-07-26T00:32:29+09:00
tmreij
本紙
これは一報のときから感じていたのですが、朝日の今回の記録発見の利用のしかたは、とてもよくないと思います。
これまでの朝日の記事から読み取れるのは、大まかに言えば、「昭和天皇が面白くないと思っていたんだから、首相は靖国神社への参拝をすべきではない」という理屈です。この日の社説でも、〈いまの世論は明確に参拝反対に傾いている。その理由はさまざまだろうが、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に不快感を抱いていたことを示す側近のメモが明らかになったことが大きい〉と主張。〈世論〉というクッションをはさんではいるものの、昭和天皇の不快感を参拝反対の大きな理由にしようという意図がみえます。
首相の参拝反対を主張するのは結構だと思います。このブログの筆者も参拝には反対です。ですので、朝日がここぞとばかりに昭和天皇の不快感を利用し、へんな愛国心に酔い気味の参拝推進派を押さえ込もうとする意欲は理解できます。
でも、昭和天皇の思いを利用するのは間違いです。そうすることで、昭和天皇という一個人の考えを、特別に意味のあるものにしてしまうからです。
憲法で明確にされているとおり、天皇は政治的な存在であることを禁じられています(実際にどうなのかは議論が分かれるところですが)。にもかかわらず、国粋主義的な考えをもつ人々は、事あるごとに天皇に政治的な役割を期待します。天皇の靖国神社参拝を要望するのも、「天皇が行くんだから国民もこぞって行くべきだ。中国、韓国など気にするな」という雰囲気の高まりなど、政治的な効果も考えてのことでしょう。
ただ、右翼的な人々が天皇の言動を重視するのは、当然といえば当然です。彼(彼女)らの多くは、天皇を崇め、他の人間とは別格だと信じているのですから、天皇が動くことで世の中も同じ方向に動くことは望ましいことと思っているわけです。
でも今回は、そうした勢力に対抗すべきはずの朝日までもが、「天皇の威を借るキツネ」状態になってしまっています。本来、一人のおじいさんの意見(とは言っても歴史的人物なのでそこそこニュース価値はあるでしょう。でも「そこそこ」でいいはずです)としてとらえるべきなのに、今回はたまたま自分たちの主張に好都合だからといって、昭和天皇の個人的な感想に必要以上の特別な価値を与え、ありがたがっているわけです。
これでは、天皇の発言に政治的な意味をもたせているのと同じです。
首相の靖国神社参拝が国内的にも対外的にも問題なのは、天皇など持ち出さずとも明らかです。朝日は責任ある言論機関として、本質論で参拝反対を主張すべきです。昭和天皇の不快感などといった、効果絶大にみえて、でも失うものが大きい危険な材料など、安易に使うべきではありません。]]>
ジダンのMVPはおかしい
http://inthepaper.exblog.jp/3797280/
2006-07-11T23:59:00+09:00
2006-07-12T00:03:40+09:00
2006-07-11T23:59:59+09:00
tmreij
本紙
このジダン選手、決勝で相手選手の胸にガツンと頭突きを見舞わせ、一発退場処分を食らった人物です。その選手がMVPだなんて、子供でもおかしいと思うのではないでしょうか。国際サッカー連盟(FIFA)の判断は、大いに批判されるべきです。
それなのに、この日の朝日にはFIFAをちゃんと批判する記事がまったくありません。それどころか、〈ジダン 憂愁のMVP〉という見出しをつけ、シラク大統領と並んで笑顔を見せる写真を載せるなど、祝福ムードです。
なに考えているんでしょうか。
相手選手がジダン選手に人種差別発言を浴びせたのではないかといった憶測が出ていますが、もしそうだとしても、強烈な頭突きを正当化する理由にはなりません。侮蔑的な発言に対しては暴力行為が許されるのであれば、国際試合の多くは流血の事態に至るでしょう。スポーツは激しく体を動かして相手と競い合うだけに、もともと一触即発の性格を帯びていて、それゆえ暴力や危険行為は厳しく禁じられているはずです。
新聞がジダン選手を厳しく批判しない背景には、〈大会を取材した各国記者が10人の候補の中から投票〉し、同選手をMVPに選んだという事情がありそうです。他人の行為に厳しく身内の振る舞いに甘い、というのは新聞も同じということでしょう。自分や身内を擁護するためには、スポーツマンシップなどは簡単に犠牲にしてしまえるようです。
情けないです。
加えて情けないのは、次の説明です。
〈投票は決勝のあった9日に行われた。10日午前0時まで受け付けられたが、実際は決勝の開始前に投票を済ませた記者が多く、ジダンのMVPにつながったと見られる。ジダンの退場を見た後に投票する記者が多ければ、違った結果になっていた可能性がある〉
だから仕方ない面もあるんだ、と理解を求めている(理解を示している)のかもしれません。でもこれ、なおさらおかしくないでしょうか。
決勝の開始前に投票を済ませるなんて、MVPを真剣に考えているのかどうかが疑わしくなります。決勝で大活躍する選手が出ることだってあるでしょう。逆に、決勝で大失態をさらす選手だっているかもしれません(今回は実際にいました)。そういう事態に対応することを、はなから放棄してしまっているわけです。
そういう記者がごく少数だったというならまだしも、多かったというのですからひどいものです。こんな人たちの投票で決まる賞にどれだけ価値があるのか、という気にもなってきます。
朝日に比べ、読売はもうちょっとまじめに書いています。スポーツ面の記事は、〈ジダンのMVPには、違和感が残る〉と疑問を提示。〈決勝戦の頭突きは言い逃れのできない蛮行であり、退場によって試合の流れを失わせた”戦犯”ともいえる〉とジダン選手を非難しています。
しかし、MVPについては朝日同様、〈投票は決勝当日の9日午後11時59分に締め切られたが、決勝前、あるいは延長戦に入る前に提出した記者もいただろう〉との事情を説明するだけ。もう一歩踏み込んで、ふらちな投票行為に疑問を投げかけることはしません。
新聞にすれば、原稿の締切やなんやかんやで忙しく、試合前投票はやむを得なかったなどの事情もあったのかもしれません。そこにはわずかながら同情の余地はあります。
ただ、そうであれば、投票締切を少しぐらい延ばすことだってできるはずです。あわてて、結果的に不適当な選手を選出するより、発表が半日〜1日ぐらい遅れたって、MVPの栄誉に値する選手をじっくり選んだほうが、ファンにとっても選手にとってもいいはずです。
不適当な人物が名誉ある賞に選ばれたとき、新聞はしばしば、賞の取り消しやはく奪の提案を含めた厳しい批判を浴びせます。今回のMVPも、そうした批判を受けるべきものだと思います。
新聞はまず、ジダン選手の頭突きを断固として否定し、そのうえでMVPが誤りであったことを主張すべきです。]]>
北朝鮮のミサイル発射は、なぜだめなのか
http://inthepaper.exblog.jp/3766890/
2006-07-06T22:18:00+09:00
2006-07-06T22:18:55+09:00
2006-07-06T22:18:25+09:00
tmreij
本紙
一連のテスト発射の動きや日本側の反応をまとめたドキュメント、北朝鮮の意図に関する分析、日本における受け止め方など、多数の記事が出ています。社説でも北朝鮮を強く非難しています。
そうしたものをざっと読んでいくと、北朝鮮は大変けしからん国だという気がしてきます。経済制裁すべきだという政治家たちの発言も、感覚的には理解できるような気にもなってきます。
しかし、感覚や感情ではそう思っても、理屈として、今回のテスト発射がとんでもないことだというのが、新聞を読んでいてもいまひとつ頭の中ですっきりと整理できません。テスト発射がなぜ許されない行為なのかをちゃんと説明している記事が、ほとんどないように見受けられるからです。
なぜ北朝鮮は今回のようなミサイルのテスト発射をしてはいけないのか。一読者として特にわからないのは、そこです。
日本人にすれば、恐い、物騒だ、不気味だ、だからヤメロ、という気持ちになるのはわかります。日本に向いてミサイルを飛ばすなんて言語同断だ、北朝鮮はいったいなに考えてんだ、ふざけんな、といった感情を抱く日本人は多いでしょう。
実際に紙面では、そうした感覚に大きく頼って、北朝鮮非難の論調を形成しているように見受けられます。ただ、それが新聞の仕事かというと、ちょっと違うように思います。
今回のテスト発射は、国際法や国際条約などで禁じられていることなのか。そもそもテスト発射に関する国際的な取り決めはあるのか。あるのであればどんな内容なのか。今回の行為は具体的にどこが何に違反しているから非難に値するのか。そういったことをちゃんと解説するのが、新聞の大事な役割ではないでしょうか。
各紙は、北朝鮮が米国にミサイル発射凍結を約束(1999年)し、日朝平壌宣言(02年)でもそれを追認していたことは紹介しています。しかし、それがどういった内容で、どれだけ効力があるのか(特に米国との約束は、米国が「テロとの戦争」を始める前のクリントン前政権下でのことだということも考慮して)、なぜ2国間の約束でしかないのか、などの踏み込んだ解説は見当たりません。それゆえ、今回の北朝鮮の行為がどれぐらいけしからんのかが、よくわからないのです。
ミサイルにしろ核爆弾にしろ、複雑な武器をもつと、それがうまく作動するかどうか実験したくなるのは当然でしょう。実際、武器の実験は、米国をはじめ世界各地で行われてきていることです(国土が広大な国は自国領内で済ませることもあるようです)。今回の北朝鮮のテスト発射は、他国の例と比較してどういう点で特別で、どういう点で他よりも批判されるべきなのか。そのことも、各紙を読んでもすんなりと理解できません。
念のためですが、このブログの筆者は、今回の北朝鮮の行為について非難に当たらないと主張したいのではありません。非難されるべきだと感じています。ただ、今回の新聞報道では、非難されるべき理由を理屈でちゃんと説明していないので、一読者として、何となくイヤだという感覚的なもの以上に、しっかりした理由づけがしづらいと言いたいのです。
各紙とも濃淡の差はあれ、北朝鮮はとんでもない国だ、だから経済制裁だ、とあおっているようにも感じられます。感覚や感情に大きく拠って作られる新聞は、テポドンのテスト発射並に危険だと思います。]]>
日銀総裁は、福井氏でなくてもいいのか
http://inthepaper.exblog.jp/3713283/
2006-06-27T23:25:00+09:00
2006-06-27T23:25:41+09:00
2006-06-27T23:25:11+09:00
tmreij
本紙
世論調査では、有効回答があった有権者1965人のうち、〈総裁を「辞めるべきだ」と答えた人は67%に上り、「辞める必要はない」の25%を大きく上回った。日銀の金融政策への信頼が「傷ついた」と思う人も70%に達し、「そう思わない」は25%〉とのこと。そうした結果から朝日は、〈中央銀行の信頼回復ができないなら、福井総裁は自らの地位にも固執すべきではない〉と主張しています。
こういう記事があってもいいと思います。ただ、今回の福井氏をめぐる報道では、新聞は全体として「市民感情」に大きく寄りかかった記事を量産し、読者が落ち着いて考えるための手助けにはあまりなっていないように感じています。
そう感じる大きな理由は、新聞を読んでいても、福井氏がどれだけ重要な(または重要ではない)人なのかがよくわからないからです。
これまでの報道は、福井氏が優秀な日銀マンであることを伝えています。きょうの朝日も、〈若くして日銀内でプリンス(総裁候補)と呼ばれた〉と略歴を紹介しています。また、他紙を含め、福井氏と同等の力量をもつ後任の総裁候補が見当たらない、といったことも報じています。
ということは、福井氏が辞めると日本の経済に多大な悪影響が及ぶということなのでしょうか。であれば、感情としては「辞任すべきだ」という立場の人も、「うーん、面白くはないが、総裁の仕事を続けさせよう」という考えに変わるかもしれません。
ただ、福井氏がかけがえのない人物であるようなことを書きながら、一方できょうの朝日のように、〈「政策判断は福井氏を含む日銀政策委員会のメンバー9人の合議制で決まる」(日銀幹部)との理由から、(日銀は今回の問題が今後の金融政策に与える)影響は最小限に抑えられる、との立場だ〉などと、福井氏の影響力を小さく見積もる声を伝える記事も少なくありません。
で、本当のところはどうなんでしょうか。総裁は福井氏でないと大変なことになるんでしょうか。それとも、他の人になってもそんなに変わらないのでしょうか。
それこそ、新聞がしっかりと分析し、読者に提供すべき大事な情報ではないでしょうか。
日銀総裁が投資で1473万円の利益を得ていたことに対し、多くの国民が強い怒りを感じ、「辞めろ」と主張するのは当然です。でも、「辞めろ」と言う人のなかには、「ところで本当に辞めちゃったら大丈夫なんだろうか」と不安に思っている人は少なくないように思います。
そういう人が確信をもって心底「辞めろ」と言えるような、または、「続投やむなし」などと考えを変えられるような、そんな役立つ記事を、新聞はもっと書くべきだと思います。]]>
ジーコ監督のテレビ批判もちゃんと伝えるべきだ
http://inthepaper.exblog.jp/3665352/
2006-06-20T01:16:00+09:00
2006-06-20T01:27:51+09:00
2006-06-20T01:16:33+09:00
tmreij
本紙
〈過酷な暑さ 攻めきれず〉という見出しがついた1面の署名記事では、グラウンドの高温状態に着目しています。それはいいと思いますが、内容として大事な部分を落としていないか、という気がします。
記事は冒頭で、ジーコ監督の言葉を次のように伝えています。
〈熱暑の消耗戦。/ハーフタイム時の気温27度というのは、直射を受けるグラウンドではまったく感覚が違ったはずだ。ジーコ監督は「こんな時間にサッカーをやること自体が犯罪だ」と吐き捨てた〉
きのうの試合後のインタビューをテレビで見た人は知っていると思うのですが、ジーコ監督のこの言葉には続きがあります。監督は、テレビ放送の時間(日本時間午後10時〜午前零時ごろ)を優先するばっかりに、2試合続けてこんな時間(現地時間午後3時〜同5時ごろ)にプレーしなければならなかった、と不満をもらしていたのです。
この部分、結構大事なように思います。ジーコ監督は結局はテレビ中心のスケジュールに理解を示すような発言をしていましたが、スポーツ選手としての本心は、なにも最も暑い時間帯に試合をさせなくてもいいじゃないか、というものだったのではないかと思います。
もちろん、暑さは両チームを公平に襲うわけですから、どちらが有利不利ということはありません。だから暑さのきびしい時間に試合をしたって別にいいじゃないか、という考えもあるかと思います。
しかし、ゲームを見るほうだって、少しでもいいプレーを見たいのではないでしょうか。暑さでヘトヘトになって集中力を欠いた試合を便利な時間に見るより、涼しめのグラウンドで好プレーが連続する試合を不便な時間(早朝や深夜)に、もしくは録画で見たほうが満足度が高いように思います。
朝日や読売など有力紙は系列のテレビ局を抱えており、それらに対する遠慮から、テレビを非難するコメントの掲載は避ける傾向にあるのかもしれません(きのうの試合はテレビ朝日=朝日新聞系列=の中継でした)。しかしそれは、メディアのためにはなっても、代表チームや本当のサッカーファンのためになっているとは言えません。
酷暑のなかの試合について語るとき、その背景にある「テレビ商業主義」にも触れるのは、とても意味があると思います。今回のジーコ監督のコメントは、スポーツとカネの関係について考えさせるものでした。新聞はこういう発言を、ちゃんとカバーすべきだと思います。
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日本の得点はゼロとして考えるべきだ
http://inthepaper.exblog.jp/3628322/
2006-06-14T01:51:00+09:00
2006-06-14T01:51:32+09:00
2006-06-14T01:51:01+09:00
tmreij
本紙
読んでいると、日本が弱いのは新聞の責任も相当大きいかも、という気がしてきました。
試合のスコアは1対3で、先制点を挙げたのは日本でした。しかし、その1点がひどい内容だったのは、テレビの中継やニュースを見た人には明らかだったはずです。中村のゴール前へのパス(シュートではない)を受けようと駆け込んだ柳沢と高原が、相手ゴールキーパーと衝突。キーパーがバランスを崩してボールをパンチ(またはキャッチ)し損ね、ボールはそのままゴールへと転がっていったのでした。
キーパーが思うように動けなければすぐ失点につながることから、キーパーとの激しい接触は故意でなくとも反則をとられるのがふつうです。その観点では、日本のプレーはファウルとされ、得点は認められなくても当然でした。きのうの試合の実質的なスコアは0対3だったといえるでしょう。
ところが、各紙の朝刊はそうした視点の記事はまったく載せていません。〈(得点は)必死の思いでもぎ取った幸運だった〉(毎日スポーツ面)、〈幸運な形で先制点を奪った〉(読売同)などと「幸運」で済ませるだけで、あの得点を疑問視する声はゼロです。反対に、〈(中村は)初めて出場した夢舞台で最高のW杯デビューを飾った〉(読売同)と、得点を積極的に評価している記事もあります。
夕刊になってやっと、〈「俊介ゴールは誤審」〉〈豪GKに主審語る?〉(読売)、〈日本のゴール判定 豪「主審『間違い』」〉(毎日)といった見出しの記事が出てきます。ただこれらも、日本の新聞が独自に冷静な視点で問題のプレーを分析したわけではなく、海外通信社の配信記事に寄りかかって、日本の得点は審判の誤審だったという見方があると伝えているだけ。この日の紙面でもっとも踏み込んだと思える記述は、〈「先制点はファウルと言われても仕方がなかった」〉(読売社会面)という審判の資格をもつ落語家(!)のコメントでした。
新聞がこんなにだらしないのは、審判の判定に敬意を払っているからというより(もし失点したのが日本だったら、各紙は審判批判の記事を載せたでしょうから)、惨敗したおらがチームに厳しいことはあまり書かないでおこうというアンプロフェッショナルな感覚があるからではないかと思います。そしてそのことが、選手および国民の目を現実からそらせ、ひいては日本のサッカーの成長を遅らせているようにも思います。
新聞が自国のチームに肩入れした報道をするのは、ある程度は仕方ないと思いますし、当然だとも言えるでしょう。ただ、かわいさ余って現実を直視せず、厳しい記事を避け、甘ったるい記事を書くようなことはすべきではありません。柳沢や高原のプレーはファウルだったはずで、中村の得点をまともな得点として扱うのは間違いです。
この日の各紙では、日本のキーパー川口の判断ミスを責める記事が目につきました。しかし個人的には、いくつかのファインプレーがあった川口を非難するより、0対3という試合結果にたち、まともなシュートは高原の1本ぐらいしかなかった日本の攻撃力のなさを厳しく指摘すべきだと思います。]]>
「暗殺」も「巻き添え」も、気にならない?
http://inthepaper.exblog.jp/3601153/
2006-06-09T23:59:00+09:00
2006-06-10T00:02:41+09:00
2006-06-09T23:59:25+09:00
tmreij
本紙
米国が2500万ドル(約27億円)の懸賞金をかけてまで必死に追っていた「大物」テロリストだけに、同国や、同国の影響が強いイラク新政府の受け止め方は「やったぜ」といった感じのようです。
それに引きずられてか、各紙の紙面には今回の殺害を好意的にみる雰囲気はあっても、批判的にとらえる記事はまったくといっていいほどありません。
これでいいのかなあ、という気がします。
米国が今回したことは「暗殺」です。米国が「テロとの戦争」状態にあることを考えると、暗殺ではなく戦闘行為の一環だという解釈も成り立つのかもしれませんが、特定の人物を最初から殺すつもりで攻撃したことには変わりありません。そこには、その人物を生け捕りにして容疑事実を確認するとか、法で裁くといった考えはありません(今回殺害されたのも「容疑者」でした)。国家による「暗殺」を非合法だとする考えもあります。
隠れ家を狙った爆撃では、ザルカウィ容疑者のほかに、女性と子ども1人ずつを含む5人が殺されました。これらの巻き添えをどう考えるべきでしょうか。女性や子どもはザルカウィ容疑者の家族だったのかもしれせん。しかしもしそうだったとしても、家族だったら一緒に殺されて仕方ないのでしょうか。
批判や、少なくとも疑問を投げかけるべきところは、いくつかあるはずです。
ところが、例えば朝日は、〈治安改善 楽観できず〉〈テロ減るか不透明〉(総合面)といった見出しの記事で、今回の殺害の効果に対する批判的な声を紹介していますが、殺害そのものを批判的にとらえる意見はどこにも載せていません。その一方で、〈テロとの戦い 「勝利」と称賛 米大統領〉(1面)、〈「一歩前進だ」 小泉首相〉(総合面)という見出しの記事などで、殺害を「手柄」と評価する声は報じています。
各国の指導者がザルカウィ容疑者の殺害をたたえるのは、不思議ではありません。米国は同容疑者のテロへの関与についてそれなりの根拠を示していますから、今回の殺害を好意的に受け止める雰囲気が世間(特に米同盟国)で支配的なことも理解はできます。
ただ、新聞までもが一緒になってその調子でいいかといえば、そんなはずはありません。今回の殺害について、批判でびっしりの紙面をつくる必要はありませんが、批判的な見方をひとつふたつ紹介するぐらいのことはすべきではないでしょうか。]]>
村上氏、口が達者なことまで悪いのか
http://inthepaper.exblog.jp/3589628/
2006-06-07T23:57:00+09:00
2006-06-07T23:57:59+09:00
2006-06-07T23:57:16+09:00
tmreij
本紙
紙面を眺めていると、新聞によって濃淡の差はあるものの、感情的な記事が各紙で目につきます。いずれも、村上憎し、または村上ザマーミロ、といったタッチです。その根本にあるのは、犯罪行為に対する怒りというより、株の売買だけで何百億もの金もうけをしたなんて許し難い、しかも雄弁でいけ好かない、といったわかりやすい、しかしあまり理性的とはいえない嫌悪感のような気がします。
例えば、読売の社会面連載〈崩壊 マネーゲーム〉は、村上容疑者について以下のように書いています。
〈「『要するにやな——』が口癖で、論理的な話しぶりだった」と小学校の同級生は言う。「大人びていた。先生を偉い人とは思っていなかったんじゃないか」。小学校で同じクラスだった男性(46)はそう振り返った〉
まるで論理的で大人びていたことが悪かったかのような書きっぷりです。さらに、次のような記述も出てきます。
〈(中学・高校でも)攻撃的な話しぶりは相変わらずで、「とにかくよく口が回り、思ったことをズバズバ言う姿が印象に残っている」と同級生は語る〉
弁が立つことまでも否定的な文脈に置いて紹介しています。
新聞が、村上容疑者の触法行為について、けしからんと責めるのは理解できます。今回の事件では、村上容疑者は法を犯したことを自ら会見で認めています。そうした犯行を厳しく批判するのは、公器である新聞の役割だといえるでしょう。
ただ、「モノ言う株主」として、企業側にいろいろと注文をつけてきたことは、それ自体は悪いことではないはずです。たとえその目的が、純粋に株価上昇による金もうけだったとしても、そうした金もうけを否定することは、資本主義を否定するようなものです。口が達者で、相手構わず直言するといった個性は、ことさらプラスに評価する必要はありませんが、マイナスにとらえるのもへんです。まるで、頭脳明晰で弁舌巧みだったことが今回の犯行を生んだと言っているかのような読売の記述は、明らかに「村上憎し」の発想から生まれているように思います。
村上容疑者のような金持ちをやっかむ人は、このブログの筆者を含め、数多くいると思います。拝金主義者や金の亡者(にみえる人)を嫌う人も、たくさんいるでしょう。今回の村上容疑者の逮捕を、爽快感とともに受け止めた人も少なくないように思います。そうした社会では、「村上全否定」の記事は歓迎されこそすれ、文句を言われることはないのかもしれません。
しかし、だからといって「庶民感覚」にどっぷり浸かった、安易で思考停止した紙面をつくっていていいはずがありません。それではテレビのワイドショーと同じです。犯罪は見逃されるべきではありませんが、この国では拝金主義者や金の亡者になる「自由」は尊重されるべきですし、ましてや頭の回転が早くて雄弁であることは認められるべきです。
新聞は、「坊主憎けりゃ……」的な発想で村上容疑者を全否定するのではなく、何が問題で何は問題ではないのかを落ち着いて考え、読者をスカッとさせるよりは「うーん」と考えさせるような記事を書くべきだと思います。]]>
なぜ容疑者写真が、こんなにデカイのか
http://inthepaper.exblog.jp/3581877/
2006-06-06T21:37:00+09:00
2006-06-06T21:44:56+09:00
2006-06-06T21:37:49+09:00
tmreij
本紙
小さい子どもが狙われる事件が相次いでおり、今回の殺害事件にも大きな関心が集まっていることでしょう。新聞が大展開するのも、もっともだと思います。
ただ、各紙が1面に掲載した容疑者の写真は、あまりにでか過ぎると思います。
一番大きいのは朝日です。容疑者の頭からひざまでほぼ全身が写っている6段(約20センチ)のたて長写真が、紙面の中央部にででーんと出ています。毎日は5段、一番小さな読売でも4段の上半身写真が、やはり紙面の真ん中付近に配置されています。
いったいなぜ、これほど大きな写真を載せるのでしょうか。
容疑者がどんな顔をしているのかを知らせるのが目的であれば、顔写真であってもいいはずです。体つきや服装も読者に知らせたいということなのかもしれませんが、そのサービス精神が果たして妥当なのかは大いに疑問ですし、仮に妥当だとしても、今回ほど大きくなくても十分にその目的は果たせるはずです。
写真がここまで大きくなった理由のひとつに、抑圧されていた新聞側の欲求の噴出があるように思います。各紙によると、容疑者は早い段階から警察にマークされ、それを受けて新聞などのメディアは容疑者の自宅や実家を張り込むように取材していました。週刊誌が〈早い段階から○○容疑者を「犯人」と断定するかのような報道を繰り返した。○○容疑者の私生活についても、うわさ話を含めて赤裸々につづった〉(読売総合面)といった動きをみせるなか、新聞は正確性の尊重や人権への配慮などから、容疑者についてはなかなか書くことができなかったはずです。
「この人がやったに違いない」「この人は本当は凶悪犯だ」とほぼ確信し、本人へのインタビューも含めて取材データを蓄積しながらも記事にできない。そうしたことからくる新聞の不満やうっぷんが、容疑者の逮捕によって一気に噴き出し、今回の大型写真につながった部分があるのではないでしょうか。
そうであれば、感情的に過ぎると言えるでしょう。読者の興味に応えるふりをして、新聞側の生々しい思いを出したということになれば、かなりタチが悪いと思います。
今回の事件現場でも、容疑者や被害者に集団で強引に取材を迫るメディアスクラムがあったようです。最近はそうした過熱報道になるとすぐ、各社が申し合わせて取材の一部自粛などをするのが流行となっていますが、この日の大きな容疑者写真を見ると、本質的な対応ができていないように感じます。
メディアスクラムの問題では、取材方法の規制も必要かもしれませんが、もっと大事なのは、今回のように一時の感情にとらわれたヒステリックな紙面づくりをやめることではないでしょうか。容疑者がどんな顔をしていて、どんな体型で、どんな服を着ているかといったことは、本来それほど大切な情報ではないはずです。それをさも重要な情報として扱うから、現場のデスクや記者たちが興味本位の取材にはしらざるを得ず、容疑者に絶えず密着すべしという判断をしてしまっているように思います。
感情的でやじ馬根性最優先の紙面づくりをやめ、抑制を効かせて事件の本質を重要視する紙面づくりをすることで、初めて現場レベルでも冷静な気持ちで取材することが可能になるように思います。今回のような容疑者の大型写真を載せ続けている限り、メディアスクラムとその被害者はなくならないように思います。
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そもそも、容疑者(や被害者)の写真を掲載する必要があるのかという議論もあるのですが、今回はそれは置いておきます。]]>
1面トップが、こんなに雑でいいのか
http://inthepaper.exblog.jp/3336948/
2006-04-30T23:26:00+09:00
2006-04-30T23:27:07+09:00
2006-04-30T23:26:45+09:00
tmreij
本紙
記事のねらいや視点については支持します。しかし、記事の手法については疑問を覚えます。
〈「靖国」日米に影〉〈「対日批判増す」専門家ら懸念〉〈米の歴史観・アジア戦略と対立〉という見出しをつけたこの記事は、次の文章で始まります。
〈日本の歴史問題への対応が、日本と中韓両国との関係だけでなく、日米関係にも悪影響を及ぼしかねないとの懸念が米国の日本専門家の間で広がっている〉
これを読んだ人は、当然ながら、「懸念が広がっている」様子についてのデータを期待するでしょう。アメリカでどんな現象が起きているのか、どれぐらいの人々の間で、どんなふうに懸念が広がっているのか、といったことが気になると思います。
ところが、今回の記事に出てくる〈米国の日本専門家〉は、〈ジョンズ・ホプキンズ大学ライシャワー東アジア研究所のケント・カルダー所長〉と、〈ジョージ・ワシントン大学アジア研究所のマイク・モチヅキ所長〉だけです。この2人が靖国問題を心配するコメントをしていることをとらえて、〈懸念が米国の日本専門家の間で広がっている〉と解説しているのです。
これは、ちょっと乱暴ではないでしょうか。
〈広がっている〉という「動き」を伝えるのであれば、その様子がわかるデータを示す必要があるはずです。靖国問題を懸念する論文や寄稿文の数が増えているとか、靖国問題を取り上げる学会やセミナーが多くなっているとか、靖国問題は大丈夫なのかと日本の専門家や関係者などに問い合わせる人が増えているとか。
しかし、今回の記事で〈広がっている〉ことを感じさせるのは、〈「歴史問題が原因で、日本に対する批判的な見方が強まっている」〉というモチヅキ氏のコメントぐらいです。ただ、これとて一専門家の分析であって、〈広がっている〉ことを客観的に示す事実ではありません。
〈外交を担う国務省内には……日中首脳会談もままならない日本に対するいらだちがある〉という記述も出てきます。しかしこれも、詳しい説明はなく、〈日本に対するいらだち〉が米国内にあるかないかを述べているだけで、〈広がっている〉ことの裏付けにはなっていません。
今回の記事にあるデータでは、「懸念が出ている」「懸念の声が挙がっている」などとは言えても、「懸念が広がっている」とは言えないと思います。邪推すれば、モチヅキ氏ら高名な学者のコメントを使うことで、記事が提示する「事実」に説得力をもたせようとしているのではないかとも考えられます。
1面トップで、しかも論説委員が書いているだけに、今回の記事は雑なところが気になります。新聞は、何らかの「事実」を伝えるときには、ちゃんとデータでそれを示すべきです。]]>
「証拠隠滅の恐れ」に甘くないか
http://inthepaper.exblog.jp/3317395/
2006-04-28T00:28:00+09:00
2006-04-28T00:30:01+09:00
2006-04-28T00:28:44+09:00
tmreij
本紙
逮捕は1月23日だったので、すでに3カ月以上も東京拘置所で身柄の拘束が続いていることになります。ちょっと長過ぎるんじゃない? と感じる人も多いと思うのですが、この日の記事には、そういう素朴な疑問にこたえるような記述はありません。
この程度の勾留など、特に問題なし、ということなのでしょうか。それならそれでいいのですが、であれば、なぜ3カ月以上も身柄を拘束する必要があるのか、読者にていねいに説明すべきだと思います。
被告は起訴事実について争っているので、保釈してしまうと証拠を隠滅する恐れがある、というのが検察の理屈でしょう。しかし、この理屈をすんなりと受け入れていくと、検察に刃向かう被告は全員、保釈が認められないことになってしまいます。間違って逮捕・起訴された場合、被告は当然、検察と争うわけですが、そんな場合も、ずっと身柄を拘束されたままになるのです。そうした長い勾留が、えん罪の温床になってきたのは、歴史的にも明らかです。
新聞は、「証拠隠滅の恐れ」に安易に理解を示すのではなく、もっと懐疑的になるべきではないでしょうか。検察が起訴したということは、有罪に持ち込むだけの証拠をそろえたということです。その後にもなお、被告が証拠を隠滅する恐れがあるというのは、具体的にどういうことを指しているのか。もしかして、口が達者な被告に取り調べなどについてマスコミでぺらぺらしゃべられたら困る、といった別の意図はないのか。そうしたことを、しっかりチェックすべきです。
今回の堀江被告の長期勾留にずばっと異論を唱えたのは、朝日の4月17日付朝刊の社説〈長い勾留 自白の無理強いでは〉ぐらいのように思います。この社説は、〈ライブドア時間では、全面否認の堀江貴文被告だけが今も勾留されている。「起訴事実を認めていないので、関係者と口裏を合わせて証拠隠滅をする恐れがある」という検察の言い分を、裁判所が認めているからだ〉と説明。そのうえで、〈だが、いまさら堀江被告が証拠を隠して回るだろうか〉という当然の疑問を投げかけています。
同じ視点で、裁判所や検察の判断の妥当性を厳しく検証する一般記事が、なぜないのでしょうか。
堀江被告は、証券取引法に違反した「悪人」なのかもしれません。しかし、いくらその可能性が高かろうと、裁判所や検察の横暴を大目にみていいことにはなりません。新聞は、被告がだれであろうと、権力のチェック機関としての役割を、淡々と果たすべきだと思います。]]>
取材プロセスも言わない、で通用するのか
http://inthepaper.exblog.jp/3303590/
2006-04-25T23:38:00+09:00
2006-04-25T23:38:55+09:00
2006-04-25T23:38:20+09:00
tmreij
本紙
「おおむね」というのは、「取材源は日本政府職員か」といった取材源の特定に結びつく質問に対しては、証言拒否を認めた一方で、〈情報源の数などに関する質問は「情報源の特定に結びつかない」として拒絶を認めなかった〉(朝日)からです。
それでも、同じ報道をめぐって先月、読売新聞の記者に対して出された東京地裁の決定よりはずっとマシです(関連記事「取材源の秘匿は大事、でも記事の検証も大事」)。そんなこともあってか、各紙、今回の判断については基本的に評価する書き方をしています。
それでいいの? という気もするですが、朝日に出ていた共同の古賀泰司・編集局次長のコメントに引っかかったので、今回はそれについて書きます。
そのコメントは、以下のとおりです。
〈直接取材源を尋ねる質問だけでなく、間接的に取材源の特定に結びつくような質問も証言拒絶の対象としたことは高く評価できる。ただ、取材源の数など取材のプロセスにかかわる一部の質問について認められなかったことは残念で、上級審の判断を仰ぎたい〉
前半部分は、まっとうな意見だと思います。この日の各紙の紙面も、同様の考えに基づいているように見受けられます。
気になるのは、コメントの後半です。〈取材源の数など取材のプロセスにかかわる一部の質問について認められなかったことは残念〉というのは、うなずけるようで、完全にはうなずけません。取材源についてはもちろん、どんなふうに取材や記事執筆をしているのかについても秘密にして当然だ、という考えが透けて見えるからです。
今回、共同が証言を拒否し、東京地裁が拒否を認めなかった質問には、以下のようなものがあります。(東京新聞〈東京地裁決定要旨〉より)
〈(1)情報源がいくつあったか(2)情報源が一つしかない場合の取材方針(3)第二の情報源から裏付けを取ろうとしたかどうか(4)取材源が情報提供の際に匿名を条件としていたか——など〉
これらのうち、(1)と(4)については、共同が証言を拒否するのはわかります。いずれも、情報源の特定に利用される可能性があるからです。
しかし、(2)と(3)についてはどうでしょうか。どちらも、〈取材のプロセス〉や取材における考え方に関する質問であって、情報源の特定にはつながらないように思います。
どうして、〈取材のプロセス〉にかかわる質問にまで、答えたくないのでしょうか。
組織として、できるだけ内部情報を出したくないという気持ちはあるでしょう。客はだまって商品を買えばいいのであって、製造方法や職業倫理などについてゴチャゴチャ言うな、という考え方は、多くの企業に共通だと思います。
ただ、今の時代はそれでは通用しません。そう大声で言ってきたのは、ほかならぬ新聞などマスコミです。他社には厳しく自社には甘く、といった対応は、読者の反感を買いこそすれ、理解を得ることはないでしょう。
取材源の秘匿は大事です。それを打ち破ろうとする力には、徹底して抵抗すべきだと思います。でも、取材源の秘匿とは関係ない〈取材のプロセス〉についてもすべて明らかにできないというのでは、読者や社会に誠実に向き合っているとはいえません。新聞だって、できる範囲で情報開示をし、読者や社会の理解を求め、襟を正すべきところは正していくべきです。]]>
で、当選した人はどんなアイディアの持ち主なのか
http://inthepaper.exblog.jp/3296570/
2006-04-24T23:52:00+09:00
2006-04-25T00:05:56+09:00
2006-04-24T23:52:20+09:00
tmreij
本紙
偽メール問題で大打撃を受け、党首が交代した民主党が、小泉自民党相手にどこまで戦うことができるのか。そこが注目されていたので、この日の紙面もその見方に沿った記事が目立ちます。
そうした記事があるのはいいのですが、あまりに「民主vs自民」という構図に力点を置き過ぎ、別の大事な情報をちゃんと伝えていないような気がします。当選して国会議員となる太田氏とは、一体どんな考えをもった人物なのか、という点です。
この日の紙面が、政党重視で人物軽視なのは、1面をぱっと眺めただけで明らかです。主見出しで「太田」の名前を入れたのは、〈民主・太田氏競り勝つ〉とした毎日だけ。朝日は〈民主、自民に競り勝つ〉ですし、読売になると〈小沢・民主 競り勝つ〉と、当選者より党代表を主役にしています。
写真も、太田氏をメインに、民主、自民両党の幹部を小さく並べるのが基本かと思うのですが(朝日はこうしている)、毎日はその逆で、笑顔で握手する民主党幹部をでかでかと載せ、その下に小さく太田氏を配置しています(読売は太田氏の小さなプロフィール写真だけ)。
このような1面に、文句をつけているわけではありません。最近の政治をめぐる状況を考えれば、妥当だと思います。
しかし、2面以降、社会面までめくっていっても、太田氏が具体的にどういう考えをもった人なのかがよくわからないのは、いかがかと思います。読者にすれば、太田氏の政治や社会に対する考え方を知ることで、「ああ、そういう人が国会議員に当選したのか」とか、「なるほど、そういう考えが有権者に評価されたのか」などと理解できるはずですが、そうした記述がほとんどないのです。
強いてあげれば——〈雇用、高齢者福祉、教育の現場に「格差が広がっている」と指摘し、「負け組ゼロの社会が必要」と訴えた〉(朝日)、〈小泉改革の負の面とされる「格差社会」に焦点を当て、「負け組ゼロの社会にしよう」と訴えた〉(毎日)、〈太田氏は「負け組ゼロ」を公約に掲げ、「反対者を切り捨てる小泉政治よりも、友愛の政治を」と訴えた〉(読売)——といったところです。
太田氏が「負け組ゼロ」と唱えていたらしいことはよくわかりますが、そのために何をするのかということは、さっぱりみえません。各紙、さっぱり書いていないからです。(朝日は社会面で、主に太田氏の経歴に焦点を当てた記事を載せていますが、具体的な政策などは書いていません)
一方で、「ママチャリによる選挙活動」といったことに対しては、各紙とも面白がって書いています。イメージ戦略としてすでに陳腐な感じがあるうえ、選挙戦になって〈1台6800円の自転車をスーパーで買い〉(毎日)求めたということなので、太田氏はそれまであまり自転車に乗っていなかったと想像できます。
それでも毎日と読売は、自転車にまたがってニッコリとVサインを出す太田氏の写真を掲載。さらに朝日を含め全紙が、太田氏は〈374キロ〉を自転車で走ったと、「伝聞」としてではなく、「事実」として伝えています(おそらく事実確認せずに)。ともあれ、この「自転車選挙」に関する記述も、太田氏の政治に対する考え方をわかりやすく示しているとは思えません。
もしかしたら、地元の千葉県版には、太田氏の具体的な政策や政治に対する考えが詳しく載っているのかもしれません。また、前日までの紙面ですでにいろいろと書いてきたのかもしれません。しかし、きょうの新聞でこれだけ展開するのであれば、きょうの本紙にも、太田氏がどんな考えの持ち主なのかを伝える記事を掲載すべきです。
選挙報道では、投票結果が国政にどんな影響を及ぼすかといった「大枠」について書くことは、大事なことだと思います。でも、選挙区選挙とは本来、地域の代表者を選ぶ作業のはずです。どういう政策を掲げ、どんな具体的なアイディアをもった人(または、いかに無策無案な人)が当選したのかということも、同じぐらい大切な情報のはずです。新聞は、政党や政局にからめた記事ばかりではなく、「人」に焦点を当てた記事も、もっと載せるべきだと思います。
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今回の補選について、1面記事では〈政策面では明確な争点がなく〉と書き、社説になると〈「格差社会」や「男女共同参画」など、国政での論点がそっくり争点になった〉と解説しているあたりは、良い悪いは抜きにして、毎日らしい感じが出ていてスキです。]]>
日本はなぜ、海底の韓国名に「対抗」するのか
http://inthepaper.exblog.jp/3275383/
2006-04-22T00:00:00+09:00
2006-04-22T14:35:30+09:00
2006-04-22T00:00:44+09:00
tmreij
本紙
毎日と読売は、社説でもこの問題について論じています(朝日は、きのうの社説で取り上げました)。きのうは3紙とも、総合面に大型の解説記事を掲載。緊張が高まっている背景を説明していました。
それらを読むと、日本の海洋測量調査のきっかけが、韓国への対抗心であることが理解できます。韓国が竹島周辺の海底に韓国式の地名をつけようとしていることへの対抗心です。
しかし、その対抗心がどれだけ妥当なものなのかについては、よくわかりません。そんなこと説明しなくても妥当に決まっているだろ、とでも思っているからか、韓国の対抗心を分析したり批判したりする記述はあっても、日本の対抗心について検証する記述が見当たらないのです。
例えばきょうの毎日1面は、〈日本政府の海洋調査は、6月に行われる海底地形に関する国際会議に韓国が竹島周辺の韓国名を提案する動きをみせたのに対抗して計画された〉と日本の動機に触れていますが、これ以上の説明はありません。なぜ〈対抗〉するのか、〈対抗〉しないとどうなるのか、といった点については、何も書いていません。
読売社説も、〈韓国が海底地形に独自の名称をつけようとしているため、日本も対案を示す必要が生じ、データを収集することにした〉と解説しています。でも、〈必要が生じた〉と言っておきながら、その理由に関する説明はなしです。
韓国名をつけられたら、竹島を含む周辺は韓国の領土ということになってしまう。だから、日本は何としてもそれを阻止しなければならない。そんなあたりが、おそらく〈対抗〉や〈必要〉の理由でしょう。
でも、それって本当にそうなんでしょうか。
「日本海」という海があります。この呼び名は、日本政府が「当該海域の国際的に確立した唯一の呼称であり、我が国政府としても従来からこの立場を取っております」(外務省ウェブサイト)と宣言しているのもので、国連でも認知されているようです。しかし、だからといって、「日本海」全部が日本の領海だなんてことにはなりません。仮に日本がそう主張したって、国際的にはまず間違いなく認められないでしょう。
今回の海底についてだって、もし韓国式の名前がつけられたとしても、それをもってすぐ、竹島の領有権や海底資源の利用権の問題に直結するのでしょうか。仮に韓国が一方的に領有権などを宣言したって、やっぱり他の国々には受け入れられないはずです。
韓国に好きなように地名をつけさせろ、と主張しているわけではありません(ただでさえ険悪な日韓関係をいっそう悪化させるぐらいなら、そういう選択をしたっていいようにも思いますが)。ただ、新聞が日本の「対抗心」を当然のように受け入れ、それを前提に記事を書いたり社説などで論じたりしていくのは、言論機関として地に足がついていない感じがします。批判精神もうかがえません。
日韓どっちの味方をするのかとか、どっちの国益を守るのかといった次元のヤジなど気にせず、新聞は、両国の思惑やその妥当性を、淡々と、しかし厳しく検証すべきだと思います。
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きのうの読売によると、日本だって約30年前に、〈海洋調査結果をもとに、竹島の南側近海の海底を「対馬海盆」と名付け〉たとのこと。それを考えるとなおさら、他の海底部分を韓国名にしたっていいじゃん、という気がしてきます。]]>
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