ピアスなし=集中している、でいいのか

元巨人の清原和博選手が、オリックスに入団することになりました。きょう(2005年12月21日)の朝日新聞朝刊は、社会面とスポーツ面でこのニュースを取り上げています。

清原氏といえば、何かと話題になるのがピアス。楽天の野村新監督が強い不快感を示していたことなどが、各紙で繰り返し報じられてきました。

きょうの朝日にも、スポーツ面に〈取ったピアス、意思見えた〉という見出しの署名コラムが載っています。来年39歳という年齢や故障がちな下半身を理由に、来季の活躍を疑問視した後、以下のように結んでいます。

〈巨人ではとかく評判の悪かったピアスは、オリックス入りを表明したとき耳になかった。グラウンド外の喧噪を封じ込め、野球に集中しようという姿勢が、この日は見えた〉

いつもしていた(と思われる)アクセサリーを外したのですから、恐らく何らかの心境の変化があったのでしょう。その変化を見逃さずに記事に取り入れる点は、評価できると思います。

ただ、ピアスをつけていない=野球に集中している、という図式はどうでしょうか。

これは逆を言えば、ピアスをつけている=野球に集中していない、ということになります。中学生がパーマをかけている=勉学に集中していない、というのと同じで、日本ではおなじみでわかりやすい発想ではあります。でも、これってあまりにステレオタイプで、ほとんどギャグの世界ではないでしょうか。外見に気を使う人は、本分に対して堕落している、という説は、どれだけ証明されているのでしょうか。

ピアスをすれば周囲の人に批判を浴び、それが気になって野球に集中できない。だから、ピアスを外せば野球に集中できるはずだ。そういう理屈も成り立つかもしれません。

しかし、この発想で問題とすべきは、ピアスではなく周りで騒ぐ人たちでしょう。ピアスをつけていたって、鼻輪をぶら下げていたって、集中できる人はできるはずです。中学や高校では坊主刈りだった人たちが、プロになったとたんに髪を伸ばしたり染めたりしていますが、外見に気を使うことが集中力の欠如につながるのであれば、これらの選手たちも、野球に十分に集中していないということになるのでしょうか。外見なんかに気を向けて、あーだこーだ批判する野村氏のような人たちこそ、選手の集中の邪魔をしているのではないでしょうか。

新聞などマスコミも、このお邪魔勢力の一翼を担っているのは間違いありません。今回の記事のように、ピアスをつけていない=野球に集中している、と書くことで、へんてこりんな精神論を拡大再生産しているのです。

きょうの朝日の紙面には、清原氏との一問一答も載っていますが、ピアスについて質問した様子は見当たりません。ピアスと、それが象徴する心構えについて書くのであれば、まずは清原氏本人に、ピアスを外した意味をちゃんと聞くべきでしょう。それでもし、野球に集中するためだ、という答えが返ってきたら、そのやりとりをもとに、清原氏の心の動きを描くべきです。

そうした確認をせずに安易に怪しげな精神論を繰り出すのは、新聞にとっても野球にとっても、よくないと思います。
[PR]
by tmreij | 2005-12-21 22:05 | 本紙


<< ジェンダー差別の解消には興味なし? ディズニー原画は「発見」なのか >>